このタイトルは雑誌「オール読物」2005年11月号に掲載された鹿島茂の同名タイトルから借用した。だからといって鹿島の説に賛同するものではなく、批判的に検証することによって「ピンク色はいつからエロか」という命題の足がかりとしたかったからだ。鹿島の…
ピンク映画とブルーフィルムという呼称はいかにして定着していったのかを三回に分けて書こうと思う。当初はもっぱら「エロダクション映画」と呼ばれたピンク映画がなぜ「ピンク映画」という呼称にたどり着いていったのか。それはブルーフィルムという言葉の…
1960年製作の寺山修司初の実験映画「猫学 Catlogy」については寺山自身が紛失したと云っているし、またこのフィルムに言及した文章も限られているので幻の映画となっている。なにしろ寺山が逝去した1983年に出版された「寺山修司の世界」(雑誌「別冊新評」…
外国製のクリスマスカードで Merry Xmas と表記されたものは見た覚えがない。クリスマスは Christmas で頭文字がXの Xmas ではないのだ。それに対して日本では Xmas ( X'mas ) もしくは Xマスと表記するのが通例となっている。略称や略記が習い性となってい…
昨年暮れに、“邦題の金字塔、「勝手にしやがれ」は川内康範=作である”を書いた。しかし今年になってから秦早穂子氏の発言が積極的だ。私の知る限りでいえば、秦氏が「勝手にしやがれ」の命名者だと自ら名のったのは、1995年発行の雑誌「現代思想」臨時増刊…
中平卓馬が書いた「愛とは嫉妬である」という手記があり、おそらく中平が安田南について具体的に触れた唯一の文章であると思われる。中平の著書「なぜ、植物図鑑か」に収められたエッセイ、「何をいまさらジャズなのか」にも登場するが、知り合いのジャズシ…
安田南は表現とは何か、唄うこととは何かについて、いつも考えこだわり続けていた。それは彼女が遺した文章のはしばしに感じられるが、その自問は歌手である安田南にとって、唄うことをいつ止めるかという迷いと常に向き合っていることの表れとも感じられた…
安田南が最初に雑誌に取り上げられたのは、昭和44年(1969)10月号の「主婦と生活」であった。「平凡パンチ」や「プレイボーイ」などの男性週刊誌ではないのがやや意外な感があるが、タイトルが「あなたはどう思う?“セックス”と“家出”と“女の幸せ”」と題する…
安田南遁走のゴシップは同時代の映画雑誌ではどのようにあつかわれたのか。例えば「映画評論」という雑誌は「少年マガジン」や「朝日ジャーナル」と並んで、全共闘世代には最も読まれていた映画雑誌である。ひなびた商店街の片隅にひっそりとある、昔ながら…
写真映りが悪い、と云われる女性がいる。活き活きとした表情の動きや何気ない仕草などはとても魅力的なのに、その一瞬を捉えた動きのない写真では、その美しさが魔法のように消えてしまうのだ。さしずめジャズ歌手の安田南などはその代表といってもいいだろ…
空気座の舞台「肉体の門」が初演された帝都座五階劇場を階上に含む帝都座は、日活映画の封切り館として昭和6年(1931)に完成した。新宿三丁目で現在は伊勢丹向かいのマルイ本店がある場所である。ムーランルージュ新宿座がオープンしたのも同年で、帝都座のほ…
映画「肉体の門」が公開された昭和39年(1964)について語るには、その前年から話を始めたほうがいいかもしれない。キネマ旬報に1963年度の映画界を振り返った記事があり、テレビ普及率の増加と、映画観客動員数の急激な落ち込みから、1962年に東宝の藤本真澄…
鈴木清順「肉体の門」は当初、浅丘ルリ子主演で企画された。同年9月に「肉体の門」よりほぼ四ヶ月遅れで公開されることになる団令子主演、恩地日出夫監督の「女体」も、田村泰次郎の小説「肉体の門」が原作だが、二作品共に映画化権を取得したのが同じ時期で…
昭和39年(1964)5月31日、東京オリンピック開催を目前に控えた時期に公開された「肉体の門」は6月17日まで続映を重ね、合計で18日間公開となり、監督の鈴木清順としては日活時代最大のヒット作となった。その理由を次に上げる四つの要素から多角的に探ってみ…
マコという呼び名は真理子や雅子、牧子などの三文字の名前を短くした愛称や名前として親しまれてきた。昭和に子供時代を過ごした人ならば、必ず周りにマコちゃんと呼ばれた子がいたはずだ。しかしひとたび漢字で魔子の字をあてると、平凡な呼称がにわかに不…
ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」は昭和35年(1960)3月26日に日本公開された。配給したのは新外映という会社で、正式名を新外映配給株式会社といい、フランス映画輸出組合(SEF)がフランス映画の日本輸入業務を独占していたものが、GHQの司…
「太陽の墓場」が封切られたのが昭和35年(1960)8月9日、「日本の夜と霧」が同年10月9日でわずか二ヶ月の期間に炎加世子は四本の映画にほぼ主役級で出演予定だった。予定だったというのは「日本の夜と霧」の併映作品、吉田喜重監督の「血は渇いている」に出演…
高見順のエッセイ集、「異性読本」に“ズベ公とはどんな女だったか”という一節があり、こんな書き出しで始まっている。「浅草のフランス座が改築して東洋劇場という名になって、その開場記念番組というのが新聞に出ていた。その出しもののひとつに“ずべ公天使…
大島渚が書いた「我が青春残酷物語」というエッセイがある。大島の第二作「青春残酷物語」が好評に迎えられ、第四作「日本の夜と霧」に取り組む前に発表された、「我が青春残酷物語」というタイトルに相応しい自身の大学時代からの苦闘と苦悩の日々をつづっ…
小坂一也は第一回日劇ウエスタン・カーニバルが開かれる前年の昭和32年(1957)に「星空の街」で映画初主演をはたしている。黒澤明「蜘蛛巣城」の添え物映画とはいえ主演作であることには変わりない。演じる役名も小坂一也をもじった小村一也となっており、高…
毎日新聞社の告知広告にはロカビリイとあり、朝日新聞社の告知には何故ウエスタンシンガーとなっているのか?それはロカビリーという言葉がまだほんの一握りの人たち以外には全く知られていなかった言葉だったからで、ロカビリーは第一回日劇ウエスタン・カ…
第一回日劇ウエスタン・カーニバルは昭和33年(1958)2月8日に開催された。ロカビリーブームのピークを示す出来事として世相年表などには必ずのっている。なぜウエスタン・カーニバルの前に日劇が入るのかというと、ウエスタン・カーニバル自体は昭和28年(1953…
広告(3)。昭和35年(1960)11月に封切られた「くたばれ愚連隊」から昭和37年(1962)12月の「俺に賭けた奴ら」まで、この時期には和田浩治主演ものが集中している。「くたばれ愚連隊」「東京騎士隊」の二作に併映作品の表示がないのは、共に益田喜頓主演の「刑事…
清順は怪しい。それは彼の映画ばかりではなく、人としてもかなり怪しい。もしかしたら狐狸妖怪のたぐいかもしれない。最近の結婚報道をみてもさすがに「ツィゴイネルワイゼン」の監督だけあって、世間体などという俗人がこだわる分別ともはなから無縁なのだ…
小説「挽歌」は昭和31年(1956)暮れに発売され、翌年にはベストセラーとなり最終的には72万部を売り上げた。昭和32年(1957)9月には久我美子主演、五所平之助監督で映画化されている。配給した松竹としては「君の名は」に継ぐ戦後二番目の興収をあげた大ヒット…
太陽族という言葉は大宅壮一による造語だということになっているらしい。斜陽族と同じで小説のタイトルに「族」を繋げただけのお手軽な造語で、キャッチーでひねりの効いた新語を生み出してきた大宅にしては、この太陽族という言葉はいかにも出来が悪い。大…
太陽族映画(当時は太陽映画といった)の全体像を見やすくするためにチャートを作成したのでご覧になって頂くとお分かりになると思うが、太陽族映画というのは歴史的事実を踏まえて厳密に云うと、昭和31年(1956)の5月から10月の僅か半年の間に公開された6本…
丸山明宏(美輪明宏)が初めてマスコミに登場するのは昭和32年(1957)春のこと。同年には時の人といった勢いで新聞雑誌に取り上げられるが、翌年になると五所平之助の映画「蟻の街のマリア」で、化粧もせずに男役で出演したことが話題になったぐらいでマスコ…
新東宝末期に製作されたラインシリーズという映画がある。昭和33年(1958)の「白線秘密地帯」から始まり「黒線地帯」「黄線地帯」「セクシー地帯」と続き、昭和36年(1961)の「火線地帯」までの五本の映画の総称である。監督は石井輝男(「火線地帯」の武部弘…
働く女性いわゆる職業婦人のことが最初に雑誌記事になったのは、大正12年(1923)に雑誌「婦人画報」に掲載された記事である。大正12年に完成したばかりの丸ビル(建て替えられる前の旧丸ビル、場所は同じ東京駅の丸の内口)のオフィスで働く新しい女性たちを…