炎加世子からみた松竹ヌーベルバーグ(3)


「太陽の墓場」が封切られたのが昭和35年(1960)8月9日、「日本の夜と霧」が同年10月9日でわずか二ヶ月の期間に炎加世子は四本の映画にほぼ主役級で出演予定だった。予定だったというのは「日本の夜と霧」の併映作品、吉田喜重監督の「血は渇いている」に出演予定だったにもかかわらず、「悪人志願」撮影終了後、病気でダウンし炎加世子の代役として柏木優子が立てられたからである。業績不振だった松竹が「青春残酷物語」の大ヒットよって、大島渚とそれに続く反大船調の映画、及び既成の女優にはない魅力を持った炎加世子にいかに期待を寄せていたかが分かる。ただ新聞広告の惹句にヌーベルバーグと書かれている映画は(それもごく小さく)、「太陽の墓場」と「ろくでなし」しかない。その理由については後述する。

「太陽の墓場」封切初日に発売され、炎加世子のキャッチフレーズとなった「セックスしているときが最高ね」の元となった週刊平凡、その四日後に発売された週刊女性の見出し「61年型の魔女」は、そのまま「乾いた湖」の広告に反映されていることはご覧のとおりである。セックスというキーワードと、週刊女性では未来型という意味で「61年型の魔女」だったキャッチが、「乾いた湖」の広告では現在形の「60年の魔女」と直されて使われている(タイトルロゴの下)。「太陽の墓場」は「青春残酷物語」と同じく大ヒットして、8月9日より22日まで二週にわたって公開された。「乾いた湖」が封切られたのは8月30日だから、その間わずか一週間しか開いていない。さらに「乾いた湖」は12日間公開された中ヒットとなり、その十日後に「悪人志願」が封切られている。炎加世子の実質上の主演作である「太陽の墓場」「乾いた湖」「悪人志願」の三本は、ほぼ間にそれぞれ一週間程度の空きを挟むだけの、現在では考えられない猛烈なペースで連続的に封切られたことになる。

「太陽の墓場」の公開中には芸能週刊誌ばかりでなく、週刊文春にも炎加世子が取り上げられた。その記事のタイトルは「“墓場”に甦った女・炎加世子」。このタイトルは良くできていて“墓場”が映画のタイトルばかりでなく他に二つの意味と重ね合わされている。自殺未遂から甦ったという意味で「死という墓場」、さらに興行不振だった「松竹という墓場」をヒットによって甦らせた、という二つの含みがある。この記事のリードには炎加世子を指して「ヌーベルバーグの旗手」としており、ヌーベルバーグという言葉が炎加世子の代名詞となりつつあった事を示している。上の中央にある写真は「乾いた湖」ロケ中の炎加世子を取材したもので、芸能週刊誌ではなく一般紙に掲載されたものだが、タイトルがヌーベルバーグ女優となっており、「乾いた湖」公開前には炎加世子=ヌーベルバーグという公式はすでにできていた。いっぽう芸能週刊誌による封切と連動した記事も引き続いて書かれていた。これもやはり週刊平凡が絡んでおり、炎加世子の売り出しとの深い関連はもはや明白だろう。一つは「悪人志願」公開一週間前に発売された「フッと淋しいとき私は詩をかくの」と題された記事、もうひとつは「乾いた湖」と同じように「悪人志願」公開当日に発売された扇景子との対談「ソコも狙っていわせるの?」である。「悪人志願」は週刊誌と連動した宣伝と、惹句に心中未遂女とあるように、シナリオ自体があらかじめ炎加世子を想定して書かれているにもかかわらず、ハイペースの公開ラッシュがたたったのか、ヒットには至らず続映とはならなかった。

「フッと淋しいとき私は詩をかくの」は表題からすると「悪人志願」とは何の関わりもないようにみえるが、「悪人志願」の主題歌を炎加世子自身が作詞し歌うということに関連した記事である。「悪人志願」公開当日に発売された週刊平凡の記事、「ソコも狙っていわせるの?」は日劇ミュージックホールの新人ストリッパーだった扇景子との対談で、ここにいたって付いたタイトルはセックス・スター対談であった。「セックスしているときが最高ね」をキャッチフレーズとした炎加世子が、ヌーベルバーグ女優であると同時にセックス・スターと呼ばれるのは時間の問題で、当然の成り行きといえる。また、「血は渇いている」に病気休養している炎の代役として出演した柏木優子を、第二の炎加世子として売りだそうとして松竹が考えたキャッチフレーズが、炎加世子の「セックス最高論」に対して「セックス昼間論」だった(この記事も同じく週刊平凡に掲載)。セックス昼間論とは「セックスはうしろ暗い愉しみではなく堂々とやればいい」というものだったようだが、ここにある柏木優子のグラビア写真(映画のスチルではない)を見ていると、炎加世子的な不貞腐れているような表情を、無理にやらされているようで痛々しい感じがする。ヌーベルバーグ的意匠が顔に張り付いているだけで、炎加世子の表情にはあった、死ぬことを止め退屈な日常といったん折り合いをつけた、どこか冷めた眼差しがないのだ(炎加世子の場合も作られたイメージではあったが、ある種の実存的な存在感を伴っていた)。

左は炎加世子の笑った表情を写した初めてのグラビアである。「日本の夜と霧」が浅沼稲次郎暗殺事件の当日に、上映4日目で突然の打ち切りとなり、佐々木功とのロマンス説をネタに公開された「太陽が目にしみる」の次回作、「旗本愚連隊」ロケを取材し記事にしたものである。見出しは「ヌーベルバーグのチャンバラ修行」となっていて、映画自体は松竹ヌーベルバーグと何の関係もないにもかかわらず、炎加世子がそう呼ばれたことによってこの見出しとなっている。もしこの笑顔写真が最初から出回っていれば、谷崎潤一郎も「残虐性の現れている女」とは言わなかったであろう。輝くような笑顔という例えがあるが、炎加世子の場合は微笑むことによって女優としての輝きを失った。

ここで再び大島渚の書いた「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」に話を戻す。この文章の中に「日本において“ヌーベルバーグ”の言葉が用いられたのは私の『青春残酷物語』が出て、吉田喜重の『ろくでなし』が出ようとする頃であった」とある。これは大島の云う通り「青春残酷物語」に先立って同年の昭和35年(1960)に公開された、本家フランスのヌーベルバーグ作品である「勝手にしやがれ」と「二重の鍵」の新聞広告にはヌーベルバーグの文字は見当たらない。もっとも映画専門誌には前年の1959年から頻出するようになるが、一般的には全く知られていない言葉だった。「青春残酷物語」がクランクアップし吉田喜重が「ろくでなし」の撮影に入った頃、つまりまだ「青春残酷物語」が一般公開される前に、まず最初に前述の週刊読売の記事が松竹の若手監督たちの動きを捉えて大船ヌーベルバーグと命名する。「青春残酷物語」が封切られ大ヒットを記録すると、映画専門誌以外の新聞雑誌も含めて「この映画は日本のヌーベルバーグだ」という論調で報じられるようになる。その動きを受けて「青春残酷物語」の次に公開された「太陽の墓場」と「ろくでなし」の新聞広告には恐る恐るではあるがヌーベルバーグの文字がみえる。恐る恐るといったのは扱いがごく小さいからで、松竹宣伝部もこの新語が集客につながるかどうか判断出来ずに、とりあえず使ってみて様子を伺ったというところだろう。

結果はどうだったのか?松竹側の立場で言えば、「ろくでなし」は「青春残酷物語」と同じ川津祐介をキャスティングしたにも関わらずヒットには至らなかったが、「太陽の墓場」は大ヒットとなった。それはこの映画が「ヌーベルバーグの決定的問題作(新聞広告の惹句より)」だったからではなく、炎加世子の性的魅力とキャッチフレーズとが相まって成功した。観客はやはりスターを見に来るのであって、言葉本来の意味でのヌーベルバーグが集客効果をもたらさない以上、「乾いた湖」の宣伝に炎加世子を全面に押し出すのは当然、となる。「乾いた湖」の広告にヌーベルバーグ作品とは謳ってはいないが、ヌーベルバーグ女優と呼ばれた炎加世子が全面的にプッシュされている以上、「乾いた湖」がヌーベルバーグと結び付けられるのは自然であり、流行語とはそのようにしてアメーバのように増殖していくものである。そこには大島の云う、言葉本来の意味にこだわるヌーベルバーグ原理主義のような言説、「『乾いた湖』のようなヌーベルバーグの“にせもの”が現れ、無責任な一部芸能ジャーナリスムがこれらを含めてヌーベルバーグと呼んだために、ヌーベルバーグはセックスと暴力の代名詞、軽薄極まりない風俗と化した」というのは、映画作品を主体性を持った作家意識の表出とみなす、あまりにも芸術至上主義的な言説と言わざるを得ない。もっともだからこそ当時の大島が一部からは熱狂的に支持され、またその反対に煙たがられたのは事実である。しかし日本におけるヌーベルバーグとは、主に炎加世子人気によって広められた横文字流行語のひとつに過ぎなかったのも、もうひとつの事実であったことは否めない。

昭和35年(1960)10月18日付けの朝日新聞に「横文字はんらん」という記事がある。「日本の夜と霧」が突然の公開中止になったのが同年の10月12日だからその6日後にあたる。その副題には「おかしい“ありがたがる心理”」とあり、その筆頭にヌーベルバーグが挙げられている。「これはフランス語でヌーベルは新しい、バーグは波ということです」と文中にあるように、フランス語であることさえ知らずに人々の口の端にのぼっていたことを示している。小見出しには「特に婦人にあこがれ」とあって、この言葉がデパートチラシやポップに盛んに使われたらしい。それは単にセックスと暴力の代名詞だけではなく「新しい」という意味でも用いられていたことが分かる。現にこの記事が出たすぐ後に、大島が小山明子との結婚を報じた週刊誌のタイトルが「ヌーベル結婚式」だった。これはもちろん大島がヌーベルバーグの監督だという意味もあるが、この結婚式が当時としては新しい無宗教の人前結婚式だったからである。

新しい、という意味だけではなく炎加世子直系のセックスを意味して使われたケースも紹介しよう。初代林家三平がこの時代に作った新作落語にその名も「ヌーベルバーグ」というのがある。聞いたわけではないのだが、上野鈴本亭でテープ録音されたものが筆記として残っている。例によってどこまでが話の枕やら分からない内容だが、ヌーベルバーグたる所以の部分を抜書きしてみる。時代背景がわからないと落語のオチが分かりづらいと思われるので説明すると、モノクロテレビはかなり普及しているがカラー放送も既に始まっている、しかしたいへん高額なのでカラーテレビは庶民の手に届くものではない、テレビでは「日々の背信」などのお色気番組を放送するので子供を持つ親から苦情の電話をテレビ局にかけている、という設定である。「モシモシ、放送局ゥ、こまっちゃうじゃないですか、あんなもんやられて、ほんとうに……どうしてあんなお色気番組やるんだよ?」「はァ、いまカラーテレビ、みなさんお買いになれないと思いましてね、番組に色気つけてんですよ」。ここで爆笑がおこったかどうかは定かではない。