邦題の金字塔「勝手にしやがれ」は川内康範=作である


ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」は昭和35年(1960)3月26日に日本公開された。配給したのは新外映という会社で、正式名を新外映配給株式会社といい、フランス映画輸出組合(SEF)がフランス映画の日本輸入業務を独占していたものが、GHQの司令によって解消させられSEFと東和商事、三映社の提携によって設立された後、東和商事、三映社が提携を解除し昭和27年(1952)にこの社名となった。1950年代末にこの日仏合弁会社の東京支社からパリの本社に出張を命じられた一会社員の女性は、そののち映画の買付け業務も任されることとなり、最初に買い付けた四本のうちの一本がこの「勝手にしやがれ」だった。その他にもフランスではヒットしなかったアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」を買付け、この映画が日本で大ヒットすることによってこの一会社員であった秦早穂子は、月刊映画雑誌「スクリーン」でアラン・ドロン関連の記事を毎号のように寄稿することにより、映画ライターとしても知られるようになる。またアラン・ドロン代理人のような立場で昭和35年(1960)の来日を企画したりした(当時の60年安保闘争がフランスでは「日本に革命が起こる」と報じられたアオリで来日はキャンセルされた)。

この時代における洋画の輸入は、外貨の使途を規制制限するために大蔵省によって統制を受けており、各業者ごとに輸入割当本数が決められていた。秦早穂子は当時まだ20代後半の独身女性で、彼女のフレッシュな感覚がなかったら「勝手にしやがれ」の日本公開は数年遅れていたに違いない。「勝手にしやがれ」がその後の松竹ヌーベルバーグをはじめとする日本映画界及び文化全般に与えた影響力を考えると、この偶然ともいえる幸運な巡り合わせがもたらした意義は極めて大きいと言わざるを得ない。またそのことによって「勝手にしやがれ」という邦題が秦早穂子によって名付けられたという通説を生むきっかけともなった。「勝手にしやがれ」というフレーズがいかにキャッチーで優れているかは、その後なんども流用されていることからも明らかだ。ざっと年代順に並べてみても、立川談志の著書名(1968)、沢田研二のヒット曲(1977)、SEX PISTOLS唯一のアルバムである「NEVER MIND THE BLLOCKS」の邦題(1977)、黒沢清監督による連作(1995,1996)などがある。

一方では、この「勝手にしやがれ」という邦題がドギツいという理由で映倫から目を付けられていたのも事実である。「ドギツい」という形容は当時の流行風俗を語る上でのキーワードだったようで、映画宣伝にもそのまま使われた。左の新聞広告にある「情報は俺が貰った」「見殺し」の二本立ては「勝手にしやがれ」封切の前月に公開されたフランス映画で、広告上部に「このドギツさ!」と謳っている。また「情報」と書いて「ネタ」と読ませるような闇社会の隠語めかしたタイトルも、ジャン・ギャバン主演の「現金(ゲンナマ)に手を出すな」あたりから流行りだした。昭和35年(1960)8月21日付けの朝日新聞に「洋画題名裏ばなし」という記事があり、そのリードにはこのような記述がある。

「近ごろの映画の題名は、どぎつすぎる」という町の評判だ。日本映画も例外ではないが、ヌーベルバーグとか、ビート族映画とかの鳴り物入りで、洋画の日本版題名は「勝手にしやがれ」「狂っちゃいねえぜ」から、とうとう「やるか、くたばるか」と、これではまるでヤクザのセリフ同然。映倫もたまりかねて、最近、題名を“自重”するよう、各映画製作・配給会社に申し入れた。

つまり「勝手にしやがれ」という題名はヤクザのセリフ同然とみられていた、ということである。また同記事には洋画の日本版題名の良し悪しが、いかに客足に影響するかと続き、配給会社は全社員を動員して、翻訳題名の候補を二十も三十も出しチエをしぼる、とある。「勝手にしやがれ」を始めとする映画は、ドギツいタイトルが当たったことでそれに便乗した悪例として挙げられている訳だ。ここでにわかに「勝手にしやがれは秦早穂子=作」説は雲行きが怪しくなる。秦早穂子は映画買付けの任にあたるフランス在住の出張社員で、日本とは当時の飛行機で48時間も離れたモンマルトルにあるホテルを定宿にしていた。そんな20代の独身女性が、はたしてヤクザのセリフまがいのタイトル作者で有り得るのだろうか?「勝手にしやがれ」という邦題は、ヤクザのセリフにも似たどぎつい当時の邦題の流行の上に立ったもので、これが決して目立って下品だった訳ではない。逆にいえばそういった日本の事情に通じていなければ生まれてこない邦題で、それがフランスでの生活を拠点としていた秦早穂子から突然変異のように名付けられたとは考えにくい。また彼女はあくまでも映画買付けが主たる仕事であり、日本版題名を考える仕事は彼女の所属する配給会社、新外映の東京支社の宣伝部を含む社員の仕事と考えるのが筋だろう。さらに彼女の著書および彼女について書かれた雑誌等を調べても「勝手にしやがれ」が秦早穂子=作とする記述をみつけることは出来なかった。

川内康範の小説集「勝手にしやがれ」は奥付に昭和35年(1960)4月20日発行とあって、映画「勝手にしやがれ」の封切初日である3月26日のすぐ後にあたる。あとがきによるとこの小説の初出は昭和33年(1958)10月より翌年の1959年1月にかけて「別冊週刊サンケイ」に連載された(映画「勝手にしやがれ」封切の一年以上前である)。別冊週刊サンケイは月刊であり、この小説は四回に分けて分載されたもので、ここに載せたものはその最終回のトップページと前回までのあらすじである。あらすじの最後に「巷のサンドイッチマンに転落した彼は、『勝手にしやがれ』と自嘲する文化やくざになっていた」とあり、映画「勝手にしやがれ」のラストで、銃弾に打たれたJ.P.ベルモンドが「最低だ」とつぶやくシーンを彷彿とさせるし、朝日新聞のいう「ヤクザのセリフ同然」どころか主人公の文化やくざのセリフそのままだ。(文化やくざとは小説内の説明によれば、サラリーマンのようなもので権力亡者とあるから今で云う企業ヤクザのようなニュアンスか)

川内康範がこの小説を書いた時は、彼が原作者だった連続テレビ番組「月光仮面」の爆発的人気でいちやく時の人となった時期と重なる。昭和34年(1959)3月22日発行の週刊朝日に、初めて小説ではなく川内康範自身を取り上げた記事がある。「“月光仮面”の素顔 作者・川内康範という男」と題するもので、川内が週刊新潮を相手取って起こした訴訟を絡めて、川内康範の人物像をまとめてある。川内が起こした訴訟とは、子供が月光仮面のマネをして怪我をしたりすることから世の識者や教育者から反発があり、月光仮面がテレビ番組から消えるかもしれない、と書いた週刊新潮に対して「そんな事実は絶対にない」と信用毀損罪で告訴したもの。後の森進一とのおふくろさん騒動からも察せられるように、川内が激情家であったことは若い頃から変わらない。別冊週刊サンケイ紙面のトップページのタイトル左に小さく東映映画化とあるが、これが実現しなかったのはこの訴訟が影を落としていると思われる。というのは川内が訴訟を起こした年とその前年に渡る二年間で、月光仮面東映でシリーズ化され計5本が製作された。小説「勝手にしやがれ」が完結したのは川内が訴訟を起こす前であり、正義の味方である月光仮面の原作者が、その関連で起こした裁判係争中に、東映で同じ原作者をもつ、やくざを主人公にした「勝手にしやがれ」映画化が立ち消えになるのも止む終えない、と思われるからだ。逆にそれだけ月光仮面は人気があったともいえる。

映画「勝手にしやがれ」が公開される前に、新外映の社員がこのキャッチーな小説タイトルに目をつけ、川内康範にタイトルだけ使わせてください、と頭を下げた。川内としても一度決まった映画化が流された後だけに、特に問題もなく快諾したのではなかろうか。前もって相談もなく流用したならば、激情家の川内のことだから一悶着あったはずである。おふくろさん騒動の経緯をみても、自分が納得すれば何も文句は付けないが、人としての筋を通さないやり方には徹底抗戦する、というのが川内の流儀だと思われるからだ。これは全くの想像だがおそらく金銭も絡んではいまい。金額の大小の問題ではなく、心情の問題でこれは川内の政治や社会への関わり方とも通底する。

単行本「勝手にしやがれ」の広告を懸命に探したのだが見つけ出すには至らなかった。版元である穂高書房は出版物をあたっても今ひとつポリシーのはっきりしない出版社で、フランス、ロシア文学の翻訳書があるかと思えば、大下宇陀児川内康範の通俗小説があったりする。この本が映画の直ぐ後に出版されても、おそらくだれも川内康範の小説のほうが映画より先だ、とは思わなかっただろう。むしろ川内のほうがタイトルを流用したと思われたかもしれない。小説の初出が今はなき別冊週刊サンケイというのも、この小説の命運を感じさせる。テレビがまだ娯楽の王者ではなかった頃、週刊誌の別冊が定期刊行されるほどに次々と通俗小説や読物が、消耗品と同じように消費され忘れ去られていった。そもそも小説のタイトルにコピーライトを考える発想が無かった時代である。もし川内が月光仮面のことで訴訟を起こしていなかったら、「勝手にしやがれ」は東映プログラムピクチャーのタイトルだったのかもしれないし、また秦早穂子が「息切れ」を原題とするこの映画を、このタイミングでピックアップしていなかったら、どんな邦題が付けられていたのだろうか?

関連記事 “「勝手にしやがれ」の怒り”を検証する