2012-01-01から1年間の記事一覧

日本においてクリスマスを「Xマス」とする表記の由来とは?

外国製のクリスマスカードで Merry Xmas と表記されたものは見た覚えがない。クリスマスは Christmas で頭文字がXの Xmas ではないのだ。それに対して日本では Xmas ( X'mas ) もしくは Xマスと表記するのが通例となっている。略称や略記が習い性となってい…

“「勝手にしやがれ」の怒り”を検証する

昨年暮れに、“邦題の金字塔、「勝手にしやがれ」は川内康範=作である”を書いた。しかし今年になってから秦早穂子氏の発言が積極的だ。私の知る限りでいえば、秦氏が「勝手にしやがれ」の命名者だと自ら名のったのは、1995年発行の雑誌「現代思想」臨時増刊…

安田南がいた時代(5)〜オトシマエをつけるのは誰だ

中平卓馬が書いた「愛とは嫉妬である」という手記があり、おそらく中平が安田南について具体的に触れた唯一の文章であると思われる。中平の著書「なぜ、植物図鑑か」に収められたエッセイ、「何をいまさらジャズなのか」にも登場するが、知り合いのジャズシ…

安田南がいた時代(4)〜静かな最前線は何処にあるのか

安田南は表現とは何か、唄うこととは何かについて、いつも考えこだわり続けていた。それは彼女が遺した文章のはしばしに感じられるが、その自問は歌手である安田南にとって、唄うことをいつ止めるかという迷いと常に向き合っていることの表れとも感じられた…

安田南がいた時代(3)〜「抱かれる女」から「男を抱く女」へ

安田南が最初に雑誌に取り上げられたのは、昭和44年(1969)10月号の「主婦と生活」であった。「平凡パンチ」や「プレイボーイ」などの男性週刊誌ではないのがやや意外な感があるが、タイトルが「あなたはどう思う?“セックス”と“家出”と“女の幸せ”」と題する…

安田南がいた時代(2)〜安田南とイメージとしての「安田南」

安田南遁走のゴシップは同時代の映画雑誌ではどのようにあつかわれたのか。例えば「映画評論」という雑誌は「少年マガジン」や「朝日ジャーナル」と並んで、全共闘世代には最も読まれていた映画雑誌である。ひなびた商店街の片隅にひっそりとある、昔ながら…

安田南がいた時代(1)〜「天使の恍惚」と「マイ・バック・ページ」

写真映りが悪い、と云われる女性がいる。活き活きとした表情の動きや何気ない仕草などはとても魅力的なのに、その一瞬を捉えた動きのない写真では、その美しさが魔法のように消えてしまうのだ。さしずめジャズ歌手の安田南などはその代表といってもいいだろ…

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(4)〜場所の記憶、新宿帝都座から日活名画座へ

空気座の舞台「肉体の門」が初演された帝都座五階劇場を階上に含む帝都座は、日活映画の封切り館として昭和6年(1931)に完成した。新宿三丁目で現在は伊勢丹向かいのマルイ本店がある場所である。ムーランルージュ新宿座がオープンしたのも同年で、帝都座のほ…

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(3)〜昭和39年とはどのような年であったか

映画「肉体の門」が公開された昭和39年(1964)について語るには、その前年から話を始めたほうがいいかもしれない。キネマ旬報に1963年度の映画界を振り返った記事があり、テレビ普及率の増加と、映画観客動員数の急激な落ち込みから、1962年に東宝の藤本真澄…

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(2)〜舞台を再現した映画としての「肉体の門」

鈴木清順「肉体の門」は当初、浅丘ルリ子主演で企画された。同年9月に「肉体の門」よりほぼ四ヶ月遅れで公開されることになる団令子主演、恩地日出夫監督の「女体」も、田村泰次郎の小説「肉体の門」が原作だが、二作品共に映画化権を取得したのが同じ時期で…

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(1)〜肉体の門と獄門島、ストリップ前夜

昭和39年(1964)5月31日、東京オリンピック開催を目前に控えた時期に公開された「肉体の門」は6月17日まで続映を重ね、合計で18日間公開となり、監督の鈴木清順としては日活時代最大のヒット作となった。その理由を次に上げる四つの要素から多角的に探ってみ…