鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(1)〜肉体の門と獄門島、ストリップ前夜

昭和39年(1964)5月31日、東京オリンピック開催を目前に控えた時期に公開された「肉体の門」は6月17日まで続映を重ね、合計で18日間公開となり、監督の鈴木清順としては日活時代最大のヒット作となった。その理由を次に上げる四つの要素から多角的に探ってみたいと思う。
(1)肉体の門と獄門島、ストリップ前夜 (2)舞台を再現した映画としての「肉体の門」(3)昭和39年とはどのような年であったのか (4)映画館の記憶、新宿帝都座から日活名画座

鈴木清順肉体の門」にはチコ・ローランド扮する黒人の牧師が登場する。主人公であるボルネオ・マヤ(野川由美子)を善導しようとするが、逆にマヤの誘惑に負けて交情し、最後は自責の念から自殺してしまう。マヤがリンチ制裁を覚悟の上で、お金を受け取らずに復員兵の伊吹新太郎(宍戸錠)と寝てしまうことの伏線となる、重要な脇役なのだが田村泰次郎の原作小説には登場しない。また昭和23年(1948)に公開された最初の映画化作品、マキノ正博監督「肉体の門」では牧師役を水島道太郎が演じている。なぜ原作には無い牧師が、マキノ版と清順版の「肉体の門」には登場するのであろうか?それはマキノ正博監督「肉体の門」が田村泰次郎の小説を原作としているのではなく、空気座という劇団によって演じられた舞台版「肉体の門」を元にした映画化であり、鈴木清順監督「肉体の門」のシナリオは舞台版「肉体の門」と、原作小説との折衷から出来ているからだ。

昭和33年(1958)6月の「図書新聞」に掲載された田村泰次郎のエッセイ、「“肉体の門”の思い出」に次の記述が出てくる。

劇団「空気座」が「肉体の門」の上演をはじめ、これが新宿や日劇で、延々とロングランを続け、そのあと田舎をまわり、観客動員数は記録破りにのぼったので、それにつれて、本もよく売れた。(中略)なにしろ本の広告は一行も新聞などに出さずにあれほど売れた本は、ほとんど空前絶後に違いない。

マキノ正博監督「肉体の門」が舞台版「肉体の門」を元に映画化されているのは以上の理由がある。当時の人々にとって「肉体の門」といえば小説ではなく、むしろ芝居の演目としての知名度が先行したということである。その芝居を上演していた空気座という奇妙な名をなのる劇団は、終戦後の翌年、昭和21年(1946)10月に結成された。メンバーは有島一郎堺駿二左卜全、沢村いき雄らの喜劇人で、水の江滝子が主宰していた劇団「たんぽぽ」に在籍していたが、「たんぽぽ」の理事だった小崎政房によって結成された空気座に集結した。堺駿二以外は戦前のムーランルージュ新宿座のメンバーで、空気座の「空気」も、おそらくムーランルージュ新宿座のキャッチフレーズだった「空気、めし、ムーラン!」からきていると思われる。人間にとって必要不可欠なもの、という意味で付けられたキャッチフレーズである。

空気座の舞台「肉体の門」で復員兵の伊吹新太郎を演じた田中実は、戦前に堺駿二と同じ劇団「たんぽぽ」に在籍していた。終戦後、伊吹新太郎と同じく復員してきて「たんぽぽ」に戻るが、トラブルがあって「たんぽぽ」を離れた浪人時代に「肉体の門」の出演依頼を受ける。出演話を持ち込んだのは小崎政房小沢不二夫で、二人ともにムーランルージュ新宿座の元文芸部員であり、「空気座」設立メンバーでもあった。小崎政房は演出、小沢不二夫は脚本、田中実が主演で、舞台「肉体の門」は公演回数1,200回を超える大ヒットとなり、映画化にあたっては舞台スタッフがそのまま引き継いだ形となった。ただし演出は小崎政房マキノ正博の共同名義になっていて、小崎政房は製作にも名を連ねている。伊吹新太郎を演じた田中実はこれが映画デビューとなって新東宝入りし、舞台「肉体の門」を観ていた監督の阿部豊に起用されて映画「細雪」に出演する際に、芸名を田崎潤と改める。

田崎潤の著書「役者人生50年」によれば、映画「肉体の門」は田中実(田崎潤)だけではポスターバリュウがないので、芝居ではちょっとだけ出てくる牧師の役をいい役にして水島道太郎が演じた、とある。舞台「肉体の門」に牧師が登場する、というソースは自分の知りうる限りこの記述のみであるが、舞台と映画が同じ脚本家である小沢不二夫によって書かれていることから間違いはないであろう。ではなぜ原作小説にはない牧師を登場させたのか?それは舞台「肉体の門」が初演された、新宿帝都座五階の「帝都座ショウ」のプロデューサーだった秦豊吉の強い意向だった、と思われるのだ。以下その理由を述べる。

「帝都座ショウ」が有名なのは昭和22年(1947)年の新春に上演された「ビィナス誕生」によってである。二十七景からなるこのショウの、ほんの一景にすぎない四、五秒の間、額縁の中に裸の女を入れて、名画のポーズをさせるという活人画、いわゆる額縁ショウによって日本ストリップの歴史が始まった、とされているからだ。この時にはまだストリップという言葉は使われておらず、最初にストリップショウという名目で行なわれたのは、翌昭和23年夏の正邦乙彦構成による浅草常盤座でのショウがその嚆矢といわれている。秦豊吉はその額縁ショウの発案者として知られるが、一筋縄ではいかない人物であったことは、森彰英によって書かれた評伝「行動する異端 秦豊吉丸木砂土」に詳しい。

秦豊吉は東大卒業後、三菱商事に入社し商社マンとしてドイツに長期滞在している。帰国後に小林一三に乞われ東宝に入社して東京宝塚劇場、帝劇社長を歴任し、その間にも日劇ダンシングチームを育てている。戦後はGHQによって公職追放され、帝都座のプロデューサーだったのは公職を離れていた間のことであった。また丸木砂土マルキ・ド・サドのもじり)のペンネームで、夫婦のセックスを扱った雑誌「夫婦生活」に艶笑随筆を書いたりした。舞台「肉体の門」は「帝都座ショウ」の合間をぬって公演された出し物のひとつで、額縁ショウが始まった同年、昭和22年(1947)年の夏に初演された。前述した田崎潤の著書によれば、公演は一年間もの間、大当たりを続け、毎日三回、日曜祭日は四回公演された。場所は帝都座五階以外にも日劇小劇場(後の日劇ミュージックホール)、浅草ロック座、浅草花月劇場(空気座は発足時に吉本興業の後援を受け、映画「肉体の門」も吉本映画と太泉スタヂオとの提携作品)と場所を変え、地方公演もこなした。

秦豊吉はベルリン在住の商社マン時代に本場ヨーロッパのレビュウを見聞し、日本にもなんとか本物のレビュウを根付かせようとした。日劇ダンシングチームの育成はその一環にあたるが、日本の演芸が西洋に比べて貧困なのは、ジャンルに乏しいからだという持論を持っていた。秦豊吉が舞台「肉体の門」のプロデュースを思い立った時、秦の念頭にあったのはパリのグラン・ギニョール座のことであった。秦の著書「劇場二十年」の中に次の記述がある。

モンマルトル横丁の、ひっこんだところにある、この劇場は、1897年の開場以来、殺人劇好色劇と喜劇ばかり上演して、パリ名物となっている。客席は272名だけで、お寺を改築した入口の透かし彫りには、私が行った時は、日露戦争当時のロシアのポスターで、日本兵士が銃剣を持って、ロシアの民衆を虐殺している、血だらけの絵が高く貼り出してあった。(中略)私はこういうジャンルの劇場があることに、大いに興味を持っていた。日本の劇界の人が、演劇だと信じているものは、いつもカブキであり、新劇であり、これ以外の新しい異色あるジャンルを少しも演劇だとは思わない。

グラン・ギニョール座と同じく定員420名の小劇場だった帝都座五階において、舞台「肉体の門」が大当たりしたのは、女性が半裸にされて受ける二度のリンチシーンが評判になったことがその理由だったことは、多くの人の書き残した文章によって知ることが出来る。舞台の演出をした小崎政房は、戦前に結城重三郎の名で剣戟スターとして活躍し、演出家としては「生きてゐる佐平次」で知られる鈴木泉三郎の「火あぶり」を演出している。「火あぶり」は責め絵で知られる伊藤晴雨とその女をモデルに書いたといわれる小説で、その残酷シーンは浅草で有名になったという。製作者、演出家がともにサディズムへの嗜好があれば、舞台「肉体の門」のリンチシーンが迫真性を帯びるのは必然で、その殺伐としたエロティシズムが敗戦直後の混乱した世相とマッチしたのだろう。SM雑誌として著名な「奇譚クラブ」が創刊されたのも、ちょうど舞台「肉体の門」が大当たりしている時期と重なるのは偶然ではないと思われる。

秦豊吉が原作にはない牧師を登場させたのは、牧師とのやり取りを通してマヤの心理の変化を、舞台として分かりやすく可視化させるためという以外にも、グラン・ギニョール座があった場所が礼拝堂を改築した建物だったことが理由ではないかと思われる。また日本の芝居を西洋化したい、という願望も持っていた。日劇ダンシングチームの育成もその現れだろう。秦豊吉マルキ・ド・サドをいち早く日本に紹介した人物であることを考えると、芝居におけるこの役は、牧師であるよりもカソリックの神父だったのではないか?マヤの誘惑に負けるのは、神父のほうが牧師より背徳的なイメージに勝るし、涜神的という意味ではサドとの関連性において繋がりを持つだからだ。ただ映画化されるときにはGHQによる検閲が厳しい時代でもあったので、リンチシーンも含めて大幅な改訂を余儀なくされた。実際、マキノ正博監督「肉体の門」の水島道太郎が演ずる牧師(神山という役名)は、清順版と違って大活躍しパンパンたちを見事に神の御許にかしずかせるのである。以下、その部分のシナリオを引用する。

その十字に組まれたその影が、焼けビルの内部に大きな十字架となって浮き出した。未だ、嘗ての焼けビルの中に、見たことのないそれは荘厳な美しい場景であった。そのバラ色の太陽にきっと顔を向けていたせん(関東小政のこと、轟夕起子の役=筆者注)は、一瞬、羞恥と悔恨と、慙愧の泪が、あふれ出る。その、せんの美しい激情は、他の娘たちの心にも、力強くしみ入った。突然、せんは、激しい嗚咽ともにうつ伏した、うつ伏した彼女の頭上に、朝霧をとおして、バラ色の太陽が描いた、美しい十字の彫像があった。それは十字架にぬかづく、敬虔なる求道信者の姿に似ていた。「神さま!おれは、また帰って来ました!」嗚咽の中から、せんの心はそう叫んでいる。その姿をみている、三人の娘たちの顔にいままでにない清純ないろがよみがえってきた。

この映画より16年後の鈴木清順監督「肉体の門」では、リンチシーンも含めて過剰なまでに演劇的な演出となってよみがえる。それは舞台「肉体の門」の再現でもあった。(以下続く)

昭和24年(1949)に封切られた映画「獄門島」の広告(左)と、同年に映画より先んじて公演された空気座による「獄門島」。空気座は「肉体の門」、「續肉体の門」、「獄門島」以外にも幾つか演目があったが、どれも「肉体の門」のようには当たらず、この年の12月に解散した。二つを比較してわかることは、映画のスチルが空気座による緊縛写真を参照していることだろう。スタッフなどの直接的な関連性は薄いが、しいてあげれば映画「獄門島」のプロデューサーが「肉体の門」の監督であるマキノ正博の弟、マキノ光雄であること。製作会社でいえば「肉体の門」を製作した太泉スタヂオ(太泉映画)と、「獄門島」の東横映画が、東京映画配給を加えて昭和26年(1951)に東映株式会社となることである。空気座による「獄門島」は、左下、右上の写真などグラン・ギニョール座の広告やステージ写真から学んだと思われる構図や表情をしている。それにプラスして、グラン・ギニョールの日本的展開としての伊藤晴雨的な緊縛実演を考えたのだろう。演出は「肉体の門」と同じ小崎政房である。変格物といわれる江戸川乱歩横溝正史などの探偵小説は、総じて日本におけるグラン・ギニョール的感性を体現していた。