鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(4)〜場所の記憶、新宿帝都座から日活名画座へ


空気座の舞台「肉体の門」が初演された帝都座五階劇場を階上に含む帝都座は、日活映画の封切り館として昭和6年(1931)に完成した。新宿三丁目で現在は伊勢丹向かいのマルイ本店がある場所である。ムーランルージュ新宿座がオープンしたのも同年で、帝都座のほうが開業が少し早い。施工したのは大林組で鉄筋コンクリートの五階建て、昭和初期のモダニズム建築に多く見られるルネッサンス様式である。ここに挙げた三枚の写真は、当時の建築雑誌に掲載された、完成当時の様子を伝えるもので、上から下に正面の外観、一階ロビー喫煙室、切符売り場となる。これを見ると建物だけでなく内装も非常に豪奢で、どこに行っても代わり映えのしない、昨今の無機質な映画館とは天と地ほどの差がある。 オープン当初、五階は劇場ではなくダンスホールとしてスタートした。「肉体の門」の原作者、田村泰次郎早大生だった頃に帝都座のダンスホールに通っていた、と後に五木寛之との対談で語っている。劇場となるのは昭和15年(1940)に日活の経営悪化に伴い帝都座が東宝傘下になってからで、この年の10月31日をもって東京中のダンスホールが日本国の指示により閉鎖させられたからである。それは年々苛烈になる戦争によって、日常生活の総てが国による統制を受け始めた一環としてあった。通称「贅沢禁止令」や、学生の劇場・映画館への平日入場が禁止されたのもこの年である。またディック・ミネミス・ワカナなどの英語に由来するカタカナ名を持つ芸能人が、内務省の指示により日本名に改名させられた。秦豊吉が育成した日劇ダンシングチームも東宝舞踏隊と改めた。

帝都座は終戦の翌年である昭和21年(1946)から営業再開する。一面の焼土と化した新宿であったが、帝都座、伊勢丹三越があった辺りだけが焼け残った、という証言がある。それは空爆による直撃をうけずにすんだことと、鉄筋コンクリートだったため延焼を免れたからであった。帝都座と同じ年に出来たムーランルージュ新宿座は跡形もなく焼失した。空気座がムーランルージュの残党によって結成されたのも、本拠としていた建物が無くなってしまったことがひとつの理由である。終戦から二年後の昭和22年(1947)には、帝都座五階劇場にて額縁ショウ、空気座による舞台「肉体の門」が初演され、そののち都内各所の劇場を転々とし、地方公演もこなす大ヒットとなったことは第一章で述べた通りである。翌年の昭和23年(1948)になると、ストリップ熱は浅草へと移り、秦豊吉公職追放も解かれ、帝都座五階劇場は閉場となるが、すぐに映画館へと衣替えが施され「帝都名画座」として再出発する。日活が帝都座の大株主となり経営権を握るのが明けて昭和24年(1949)からで、ここから洋画専門の名画座として一時代を画するスタートとなる。

昭和26年(1951)には名称を帝都座から新宿日活と改め、それにともなって帝都名画座も日活名画座となった。この写真はその頃のものであるが、いっけん帝都座と何ら違わないようでいて、よく見ると建物上部にあったローマ字の看板「TEITOZA」が無くなっている。もう1枚の写真は階段にぎっしり並んで、日活名画座への入場を待つ人を上から撮影したもの。日活名画座は五階にあったが、戦後はエレベーターの運行を停止していた。となると帝都座五階劇場だった頃も当然そうだったわけで、舞台「肉体の門」を観るために、九十五段あったという階段を下から上へと登っていった、当時の人々のうだるような熱気が垣間見えるようだ。

日活名画座が今でもよく知られているのは、和田誠が日活名画座のポスターを描いていたためである。それはまとめられて一冊の本になっているほどだ。映画エッセイや映画監督としても知られる和田誠が、日活名画座のポスターを描き始めたのは昭和34年(1959)からで、その後、八年間に渡って会社勤めのかたわら続けられた。ポスターを描いているのにもかかわらず、日活名画座にお金を払って入場していたのは、その仕事が日活名画座からではなく、ポスターを作っていたシルクスクリーンの印刷所経由だったためで、和田誠がポスターの絵を描きたいという一心から引き受けたからである。さらに驚くべきことにはノーギャラという条件を呑んだ上でのことだった。鈴木清順肉体の門」が封切られた昭和39年(1964)の日活新宿には、肉体の門のポスターと並んで、和田誠が描いた日活名画座のポスターが貼られていたことになる。

鈴木清順との関わりの深い映画評論家の石上三登志は、雑誌「映画評論」の読者論壇から頭角を現し、やがて読者という立場から離れて本誌に寄稿する、という形で映画評論家としてのキャリアをスタートさせている。鈴木清順が本格的に取り上げられた最初の記事は、昭和41年(1966) 11月号における「映画評論」の「呪文に魅入られてー鈴木清順の霊峰ー」という記事で、鈴木清順の他に美術の木村威夫、「映画評論」の編集長だった佐藤重臣石上三登志の四者による会談である。和田誠石上三登志は、1950年代から60年代にかけて名画座で映画を学んだ第一世代とでもいうべき人たちで、当時は日活名画座の他にも、池袋人生坐(現在の新文芸坐)、エビス本庄、目黒パレス、目白白鳥座などがあった。石上三登志の文章は、これまでの映画評論の主流であった、政治的な傾向や世代論的な対立といった構図に基づいて、一つの映画を分析し掘り下げていくものとは違い、俳優やセリフ、映画における文法(スタイル)といった切り口で、ジャンルや洋画邦画の区別なく自由に映画を横断していくのが特徴で、これは名画座第一世代に共通する特徴といってもいいのではないか。それはいうならば名画座における特集プログラムの組み方を、方法論として映画評論を書く上での枠組みとして敷衍したものといえるかもしれない。

日活名画座は「イタリア映画大鑑」とか「日活名画座巴里祭」と銘打って盛んに特集上映を催した。そこにある括りは、イタリア映画、フランス映画というだけで製作年代やジャンルに共通点はない。何の先入観も持たずに映画に接する、という態度は石上三登志和田誠の文章に共通するものだ。鈴木清順評価の気運が、映画評論家ではなく、無名の映画ファンによる読者論壇から盛り上がってきたのは前述したが、名画座第一世代に属する彼らが、プログラムピクチャーとして埋もれていた鈴木清順の映画を発見するのは象徴的である。彼らは映画に対する態度が自由で構えがなく、映画評論家の相手にしないどんな映画でも貪欲に吸収した。新宿日活がその五階に日活名画座を擁することで、そんな彼らが日活映画のプログラムピクチャーを身近に感じていたことは、双方にとって幸運なことであった。

舞台「肉体の門」を観たことがある都内在住の四十代以降の人々が、映画「肉体の門」を見ようと思い立った時、映画館は何処にしようか迷ったりはしなかっただろう。建物は変わってしまったとはいえ、帝都座があった同じ場所に新宿日活があり、その五階には舞台「肉体の門」が演じられた帝都座五階劇場ならぬ日活名画座があるからだ。いやむしろ舞台と同じ場所で映画がかかったからこそ、重い腰を上げて新宿日活へと向かったに違いない。舞台「肉体の門」を観に行った時と同じ道筋をたどり、己の戦後史と重ね合わせながら、その変貌ぶりを確認しつつゆっくりと…。折しも新宿駅は封切直前の5月18日に、新宿民衆駅(ステーションビル、現在のルミネの前身)として商店、食堂が250店舗がはいり、新しく生まれ変わったばかりである。泥と汗にまみれた猥雑なバラックのマーケットが立ち並んだ終戦直後の新宿駅前から、20年の歳月を隔てて清潔で近代的なステーションビルとなった新宿駅に降り立った時、彼らの脳裏をよぎったものは何だったのだろうか。

新宿日活が帝都座と同じ場所にありその五階が日活名画座だったことが、若い世代や四十代以降の双方の観客動員につながったこと。これが「肉体の門」がヒットした第三の理由である。昭和46年(1971)におこなわれた雑誌対談で、「肉体の門」の原作者である田村泰次郎五木寛之に、戦前に帝都座五階のダンスホールに通っていた、と語ったことは冒頭に書いた。ところが五木寛之はこの話をこれ以上広げようとはせずに、次の話題へと話は移ってしまう。五木寛之はエッセイ集「風に吹かれて」のなかで、日活名画座に触れ、映画勉強の場だったと書いていることを考えると、対談の聞き手としてはいかにも手抜かりである。時を隔てて同じ場所で、かたやダンスに興じ、かたや洋画にかじりついていたのである。話の持っていき方はいくらでもあったはずだ。ダンスホールだった帝都座五階が劇場となり、終戦直後には舞台「肉体の門」で人気を博し、その後は帝都名画座、日活名画座へと変遷していく歴史がそこで語られることはなかった。新宿日活(この時代には日活新宿オスカーと名前を変えていた。2009年に閉館した歌舞伎町の新宿オスカーとは別)はこの対談の行われた翌年の昭和47年(1972)にマルイに売却されて、帝都座から数えると41年の歴史に幕を下ろす事になる。