安田南がいた時代(1)〜「天使の恍惚」と「マイ・バック・ページ」


写真映りが悪い、と云われる女性がいる。活き活きとした表情の動きや何気ない仕草などはとても魅力的なのに、その一瞬を捉えた動きのない写真では、その美しさが魔法のように消えてしまうのだ。さしずめジャズ歌手の安田南などはその代表といってもいいだろう。とはいっても安田南のことを直接知っているわけではないし、何度もライブに足を運んだわけでもない。たった一度だけ公園通りの山手教会地下にあった渋谷ジャン・ジャンで、山本剛トリオをバックに従えたライブを観ただけだ。こちらはまだ高校生気分の抜け切らないほんの青二才だったが、安田南は成熟した女性としての存在感が圧倒的で、彼女の醸しだすあまりにもセクシャルな姐御風情と、幼稚な私との落差は、安田南が歌っているほんの数メートル先のステージと、観客席にいる私との間にある、埋めようもない底無しの奈落のようなものとして感じられた。いま残されている安田南の写真を見ても、あの時に感じた惨めさと共に、心地よくもあった敗北感のようなものが蘇ってこないのは、安田南の写真映りが悪いせいであろうか。しかしわずかながら例外もある。それは一時期、彼女と恋人関係にあった写真家、中平卓馬が撮影したもので、アルバム「Some Feeling」のジャケット表裏に使われた二枚の写真である。それは70年代に最も先鋭的であった写真家が、恋人を被写体に選んだからこそ撮ることが出来た一瞬の奇跡なのではないか、と思われるほど魅力的だ。それにつけても彼女が活き活きと歌っている映像が残されていないのはいかにも残念だが、そのことで思い出されるのは映画「天使の恍惚」主演降板の顛末である。それは未だに謎に包まれたままだ。

「天使の恍惚」は原題を「天使の爆殺」といい、その原題通り過激派による爆弾闘争を扱った映画である。「天使の恍惚」公開二年前にあたる昭和45年(1970)3月に発生した赤軍派による「よど号ハイジャック事件」以降、それまでは主に学園闘争が中心だった全共闘運動の一部セクトが、より先鋭化して武力闘争による爆弾テロ事件が頻繁に起こることとなる。中でも「天使の恍惚」公開直前の昭和46年(1971)12月24日におきた「新宿クリスマスツリー爆弾事件」は、クリスマスツリーに見せかけた爆弾の置かれた場所が四谷署追分派出所であったことから、「天使の恍惚」上映反対の恰好の口実とされた。というのはここに挙げた新聞記事とその地図を見ても明らかなように、四谷署追分派出所は「天使の恍惚」が上映される予定の新宿文化(新宿アートシアター)の目と鼻の先にあったからである。当時のキネマ旬報で「日本映画縦断」という連載記事を書いていた竹中労によれば、この上映反対運動を演出したのは桜の代紋(警察)と毎日新聞であった。毎日新聞はこの「新宿クリスマスツリー爆弾事件」がおきたすぐ後に、「こんな時に無差別テロ映画」という製作中止キャンペーンを張った。この記事は新宿アートシアターのある地元商店会(竹中によればこの背後にも警察権力がある)による上映反対運動を後押ししたし、また警察は警察で東宝やatgの映画館まで嫌がらせをした。足立正生の著書「映画/革命」によれば、「怒った右翼が来て映写機に砂をかける」とか「怒った過激派が映画館に爆弾をしかける」という二つの殺し文句で脅かして廻った、とある。

そんな経緯がありながらも、若松孝二監督の映画「天使の恍惚」は若松プロとatgの提携作として、昭和47年(1972)3月11日に東京では新宿文化のみで封切られた。封切当日も連合赤軍による、同志に対するリンチ殺害事件が明るみとなり、その記事が朝刊トップを飾るという最悪のタイミングであった。藤田敏八監督「八月の濡れた砂」が併映作として再映され、atgの東京におけるもう一つの拠点である、有楽町の日劇文化は東宝が映画の内容に怖れをなして手を引いたために、ピーター・フォンダ監督主演の「さすらいのカウボーイ」を上映していた。新宿文化での上映も危ぶまれたが、上映中止にならなかったのはこの映画のプロデューサーであり、新宿文化の支配人でもあった葛井欣士郎の尽力による賜物であった。

安田南はこの問題の映画「天使の恍惚」で横山リエが演じた役に当初キャスティングされていた。またこの映画のスチルも安田南の恋人であった中平卓馬である。この事情を足立正生は前掲した著書「映画/革命」の中で次のように語っているので、その一部を引用する。質問者の「“天使の恍惚”のスチールは中平さんですが、足立さんが頼まれたんですか?」との問いに対する回答である。

それもあるけど、主人公役に安田南さんが上がっていて彼女のオーディションにくっ付いてきた。じゃあ、スチールは中平さんだと決まった。第一回目の顔合わせやテストを兼ねて、ポスター用の写真を撮ろうということになった。(中略、全員がぐるぐる走り廻るシーンを撮影することとなる)全部スローシャッターで撮っているから、結果はわかっていた。俳優さんの誰が誰かもわからない。走り抜けるだけの人影の流線型が無数に交差したものが出来上がった。写真としてはなかなか素晴らしいが、これだけではポスターにならないと判断された。(筆者注=70年代初頭の中平卓馬は、ブレやピンボケを意図した作風で知られた)若松さんは機嫌が悪く、安田さんは芝居出来ないことが分かったから降りて貰うしかない、しかし、その前に滅茶苦茶を続ける中平さんをたたき出してくれ、と悲鳴を上げていた(笑)。

この発言に矛盾があるのは、安田南はオーディションで採用したにも関わらず、若松孝二は「安田さんは芝居出来ないことが分かったから降りて貰うしかない」と発言した、とされていることだ。芝居が出来ないならオーディションの段階で落とされているはずである。またこの発言の前に、足立の著書「映画/革命」には中平卓馬について「共闘」という言葉を使い、「天使の恍惚」以前から深い人間関係があったことを語っている。引用した足立の発言では、安田南は中平卓馬とは関係のないオーディションで決まり、それにくっ付いてきたからスチールが中平となった、とされているが、足立と中平との関係を考えれば、オーディションなどではなく中平の推薦で安田南が採用された、と考えるほうが自然ではないのか。安田南を介して、以前から共闘関係にあった二人が偶然に出会う、というのはいかにも下手な作り話めいている。

こう考えるのには理由がある。足立の著書「映画/革命」は平成15年(2003)に出版された本であり、この本で足立は若松孝二の方から安田南に引導を渡したかのように語っているが、「天使の恍惚」が公開される前年の昭和46年(1971)暮れに発売された週刊誌には、これと正反対の事柄が書かれているからだ。スキャンダリズムを信条とする週刊誌とはいえ、時間の経過というバイアスがかかっていないからこそ見えてくるものもある。それは雑誌「週刊平凡」と「週刊文春」で、5万円とか、フィルム2,000フィート等の数値が一致することから、記者を集めた公式の場で若松孝二本人の口から語られた、同じソースを元にして書かれた記事であることは間違いない。週刊文春から記事を抜粋してみる。

映画の主演女優が、作品の凄さに恐れをなしてか撮影のまっ最中に遁走した。安田南。聞かぬ名だが、若松孝二がATGと提携して製作する1,200万円の“超大作”、「天使の恍惚」に出演させるため、新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ(そうは見えぬが)だったらしい。(中略)当然安田はハダカになった。二十分にわたるリンチとベッド・シーン。これを11月の28,29日に撮り、5万円を渡したら12月1日には持ち逃げ。三日間、アパートや新宿中を探しまわったが見つからず。フィルム2,000フィートがフイになり損害額50万円!代役に横山リエをたて、同じシーンは無事撮了したが、若松監督怒るまいことか。「見つけて必ずオトシマエをつけてやる!」。安田の置き手紙に「内容がよくわからないし、思想的にあわない」とあったそうだ。(週刊文春1971/12.27号より)

これだけ具体的に日付と金額が出ている以上、よもやガセネタではあるまい。しかも別会社の週刊誌二誌がほぼ一致した記事内容となっているからには、巷間云われているように、安田南はクランクイン直前に降板したのではなく、二日間にわたる撮影が終わった後、5万円を持って遁走したのは事実と考えたほうがいい。とすれば安田南を撮影した幻のフィルムが残されている可能性があるのだ。だがなぜ遁走しなければならなかったのか?「作品の凄さに恐れをなして」逃げ出すような、やわなタマではないことは断言できる。それを解く鍵は安田南と中平卓馬とが共に関わった雑誌「朝日ジャーナル」にある。

安田南は筆が立つ。それは安田南と親しかった瀬戸内寂聴もプロ並みと認めるところだった。安田南のエッセイは「みなみの三十歳宣言」として、昭和52年(1977)に晶文社より出版された。雑誌「朝日ジャーナル」に掲載された安田南のエッセイは二つあり、共に「みなみの三十歳宣言」に転載されている。その内の一つ、「ハロー・グッドバイ」は昭和47年(1972)2/11号に掲載された。この同じ号には中平卓馬撮影のカラーグラビア「もうひとつの国 都市Ⅱ」も載っている。中平が活躍した70年代前半、それはちょうど安田南と恋人同士だった時期と重なるが、中平にとって雑誌「朝日ジャーナル」はいわばホームグラウンドのようなものであった。写真以外にも彼が書いた文章の多くが「朝日ジャーナル」誌上に掲載されている。

「ハロー・グッドバイ」はシリーズ連載として書かれたものの一つで、シリーズタイトルを「現代歌情」といい、各界の著名人が一つの歌を選び、それにちなんだエッセイを書くというリレー形式のものだった。安田南の「ハロー・グッドバイ」は言うまでもなくあのビートルズの曲である。執筆者は他に大和屋竺が「傷だらけの人生」(歌=鶴田浩二)、鈴木清順「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ)、小林信彦「さすらい」(小林旭)といった、かなりサブカルチャーに淫したクセのある人選で、このシリーズを担当していた編集者が朝日ジャーナル時代の川本三郎である。彼はこの他にも、日大全共闘議長の秋田明大に「練鑑ブルース」(守屋浩)、滝田修に「おんなの朝」(美川憲一)のエッセイを依頼している。滝田修は後に朝霞自衛官殺害事件の首謀者として指名手配されることになる。朝霞自衛官殺害事件は川本三郎も関わったとして逮捕され、その顛末は「マイ・バック・ページ」として本になり、昨年には映画化もされた。「現代歌情」が32回という中途半端な回数で終わっているのは川本三郎が逮捕されたためである。

川本三郎が安田南にエッセイを依頼したのは、昭和46年(1971)8月に開催された中津川フォークジャンボリーに取材に行き、そのステージを見て決めたことだった。その部分を「マイ・バック・ページ」より引用する。

女性ジャズ・シンガー安田南が舞台にあらわれたころには会場内はもう収拾がつかないほど混乱していた。荒れていた。あちこちで何か怒号が起こっていた。インターナショナルを歌い出すグループがいた。ステージに駆けあがって「粉砕!粉砕!」とデモを始めるグループがいた。気が強い安田南がデモ隊に向かって「テメエら甘ったれるんじゃねえよ!」とタンカを切った。(中略)そんな緊張が続いていたので逆に「現代歌情」の仕事はひとつの救いになった。その仕事のあいだは、全共闘運動も三里塚運動もしばらく忘れることができた。“中津川フォークジャンボリー”のステージで若い男たちを「甘ったれるじゃねえよ!」と怒鳴りつけた女性ジャズ・シンガー安田南のことが強烈に印象に残ったので彼女に原稿を頼みにいった。はじめジャズのスタンダード・ナンバーについて書いてもらおうと思ったが、二人で話しているうちにビートルズの「ハロー・グッドバイ」にすることにした。ビートルズは前年に解散していた。「グッドバイ」とか「別れ」が時代の気分に合っていた。

朝霞自衛官殺害事件の首謀者とされた滝田修。そして安田南は、川本三郎の人脈として同一線上に並ぶこととなる。朝霞自衛官殺害事件にからむ川本三郎の行動は「マイ・バック・ページ」によれば次のようなものである。川本が週刊朝日の記者時代にKという男が接触してきた。彼は京浜安保共闘であることを騙り、川本の自室でインタビューを受ける。その際、川本の自室の本棚にあった宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が好きだといい、ギターを借りてCCRの「雨を見たかい」を唄う。川本は自分と共通する嗜好を持つKという男にシンパシーを覚える。川本が朝日ジャーナル編集部に移動したあと、Kに対して「事を起こすことがあったら取材させてくれ」と申し入れる。Kは赤衛軍を結成、自衛隊朝霞駐屯地を襲撃し、武器略奪を図るが失敗し、自衛官一人を殺害する。Kから連絡を受けた川本と朝日新聞社会部記者が二人でKと面会しインタビューに成功する。しかし朝日新聞社はこれを単なる殺人事件と認定し、警察に通報すべきだと判断したが、川本は政治思想犯であると主張し、取材源の秘匿をたてに、その判断に従わなかった。Kから預かっていた、殺された自衛官の腕章とズボンは、川本にとっては記事の信憑性を保証するものであったが、警察にとっては犯罪を立件する物証としての意味があった。朝日新聞社の判断でインタビューが記事にならない、と知った時、川本は知人に預けてあった腕章とズボンを焼却するよう依頼する。それは川本にとっては「気持ちが悪い」という感覚的な判断だった。川本はKに対して、ジャーナリストとして取材源の秘匿という責任は守ったと思っていた。しかし逮捕されたKはあっさりと川本が共犯であることと、滝田修の指示に従ったと供述した。滝田修は指名手配され、川本は昭和47年(1972)1月に証拠隠滅罪で逮捕される。23日間の勾留の後、釈放されるが、朝日新聞社から懲戒免職され、懲役十ヶ月執行猶予二年の判決を受ける。

Kは逮捕されると同時に川本三郎が共犯者だと供述した。このことは無論、表には出なかったが記者仲間にはじわじわと知れ渡った。「朝日ジャーナル」をホームグラウンドとしていた中平卓馬がこの情報を馴染みの記者からキャッチし、中平を通して安田南に伝わっていたことは確実だと思われる。当時の過激派とその周辺には私服の公安警察が絶えず眼を光らせていたことは、「マイ・バック・ページ」における次の記述でも窺い知れる。

私と酒をいっしょに飲んだというだけで事情聴取された人もいた。私と滝田がたまたまここで酒を飲んだというだけで事情聴取された飲み屋もあった。

Kが逮捕されるのが昭和46年(1971)11月16日、「天使の恍惚」製作発表が同年11月24日、安田南が出演した「天使の恍惚」が撮影されたのが28,29日の両日、遁走したとされるのが12月1日である。川本三郎が逮捕されるのが翌年の1月9日であるから、安田南が関係する一連の出来事は、Kと川本が逮捕される狭間で生じた、わずか一週間足らずの間でおこったことになる。「天使の恍惚」の冒頭で米軍基地襲撃と武器奪取作戦が謀議される。このエピソードは朝霞自衛官殺害事件における自衛隊の武器略奪作戦がヒントになっていることは、足立正生が「映画/革命」の中でも自ら語っている。ゲリラたちが全員スーツ姿に身を包み、高級クラブで作戦会議をするという意表をつくイメージは、Kを含む赤衛軍が帝国ホテルで作戦会議を開いたことの意外さと符合する。川本三郎との接点がある安田南が、「天使の恍惚」のような映画に主演するとなれば、どんな素性であれ心情的に過激派寄りとみなされ、滝田修に次ぐ要注意人物とされることは日の目をみるより明らかだ。事情聴取だけではなくそれ以上の取り調べを受けることは確実で、「パルチザン前史」で滝田修のドキュメンタリーを撮った土本典昭が、滝田を一週間泊めたという女性との繋がりだけで家宅捜索を受けた例がある。安田南が遁走したのは映画=フィクションからではなく、現実に迫る公安警察から一時的に身を隠したかったからだ、と思われるのだ。