安田南がいた時代(5)〜オトシマエをつけるのは誰だ


中平卓馬が書いた「愛とは嫉妬である」という手記があり、おそらく中平が安田南について具体的に触れた唯一の文章であると思われる。中平の著書「なぜ、植物図鑑か」に収められたエッセイ、「何をいまさらジャズなのか」にも登場するが、知り合いのジャズシンガーとして簡単に触れられているにすぎない。「愛とは嫉妬である」は1974年6月号の雑誌「婦人公論」に掲載されたもので、実名では書かれていないものの安田南のことだと分かるのは、同時に掲載された藤田敏八の談話と共に「別れてもまだ未練を持たされています」というサブタイトルが付けられているからである。この2つの文章は、前年の1973年10 月号に掲載された、安田南と福田みずほが執筆時に付き合っていた男について書いたエッセイの、書かれた当人である男側からの返答という形式となっている。安田南と福田みずほがエッセイを書いた当時はまだ付き合っていたのだが、その八カ月後には中平卓馬藤田敏八は共に離れていった女に対して、「別れてもまだ未練を持たされています」というサブタイトルの下に、文章なり談話を発表しているのだ。今の眼からみれば信じられないような企画であり、安田南の思惑はどうあれ、まさにウーマン・リブ的な女性主導型の文脈の生きていた時代だからこその雑誌企画だといえる。「愛情砂漠」や「赤い鳥逃げた?」の作詞家として知られる福田みずほも、この時代のヒロインの一人であった。中平卓馬は安田南と出逢った当時を振り返ってこのように書いている。

そして本当に愛したたった一人のS。君とも私は別れねばならない。初めて君と会った時、君は寒さでぶるぶるふるえる睡眠薬常用者だった。君はありあまる才能をもちながら、それを表現する形式を見出せず、ただひたすらなる反抗者だった。君は妻子ある私を愛したがために、いつも強気でいなければならなかった。(中略)
今、君はようやく君自身の才能に形式を与え始めた。(筆者注=イニシャルのSは south=南 のS)

この手記が書かれた時期はちょうど「気まぐれ飛行船」が始まったばかりの頃で、「今、君はようやく君自身の才能に形式を与え始めた。」とあるのはディスクジョッキーという形式に、安田南が自身の才能を見出す場所を探し当てたことをいっている。ここに書かれた中平の安田南に対する熱烈な想いを、そのまま「天使の恍惚」に出演させるための動機として置きかえるとこのようになる。ありあまる才能を持ちながら、いつも震えている睡眠薬常用者(合法的ドラッグとしてのハイミナール中毒)だった安田南に手を差し伸べ、女優としての「形式」を与えることで羽ばたかせようとした。そしてその相談を受けた共闘関係の同士である足立正生は、安田南を「女優に仕立てようとした」。そのために足立正生が考えたことは、あらかじめ設定された役柄を安田南に演じてもらうのではなく、その反対に「安田南」像を役柄に近づける事だった。簡単に言ってしまえばアイドル映画のフォーマットをそのまま流用し、70年代型の最先端を行くカッコイイ女として造形しようとした。男に抱かれるのではなく男を抱き、ヒップでラリっていて男勝りの口をきき、「オトシマエ」というヤクザな言葉がよく似合う女である。

「オトシマエ」という言葉は「天使の恍惚」の中でたびたびセリフに出てくるキーワードであり、リーダーである吉澤健をはじめ横山リエ、小野川公三郎のセリフの中にもある。プレスシートの解説文にも「十月組のオトシマエは自身の手でつけるべく、決意表明としてアジトを爆破」として登場する。また「週刊文春」の安田南遁走のゴシップ記事で若松孝二が云ったとされる、逃げた安田南に対する怒りの発言の中でも使われている。「見つけて必ずオトシマエをつけてやる!」

女優が遁走したことを映画宣伝の手段に使いつつ、映画のキーワードである「オトシマエ」という言葉もしっかり取り入れるなど、若松孝二も転んでもただでは起きない抜け目なさではある。ところでこの「オトシマエ」という言葉は、「天使の恍惚」のシナリオが足立正生によって書かれる前に、安田南の書いたエッセイの中で既に使われている。それは前章でも取り上げた、中津川フォークジャンボリーでの顛末について書かれたエッセイ、「かぼちゃ畑に月も出る」の中にあるので、その部分を引用してみる。それは安田南のステージをメチャクチャにした暴徒に言及した部分に出てくる。

一曲すらまともに唄わない状態で自分たちのゲバの正当性を主張するばかりでは、とびこまれた本人の安田南としては悲しい運命よなどと言ってはいられないのだ。オトシマエのつけようのないあの状況を無理矢理収支決算するとすれば、この次にはみなさんがた、否が応でもワタシの唄をお耳に入れますぜ。横向きゃビンタ、耳をふさげばゲンコツ、どうでも聴いてもらいましょう、と凄むのも悪くない。

この映画が製作された1970年前後には、ヤクザ映画のメンタリティーが当時の全共闘世代を含む若い世代の心をつかんでいたことはよく知られている。安田南が使った「オトシマエ」のたとえも、その上に立ったものであることは明らかだが、「オトシマエのつけようのないあの状況を無理矢理収支決算する」とは、いってみれば「天使の恍惚」の物語構造の根幹そのものではないのか。吉澤健をリーダーとする10月組は米軍基地から略奪してきた爆弾を奪い取られはしたが、手製のピース缶爆弾で住んでいたアパートを爆破することで、「オトシマエのつけようのないあの状況を無理矢理収支決算する」ことから再出発を図る。そしてそこが起点となって物語はラストに向かって一直線に進んでいく。

足立正生が安田南を「女優に仕立てよう」とするために、彼女をリサーチする段階でこのエッセイには無論、目を通していたことだろう。その時点で安田南をヴィーナス=「金曜日」として物語の中心に置き、爆弾闘争を主題とする、という大枠だけは出来ていたがストーリーは未定のままだった。そのとき、彼女の文章の中にある「オトシマエのつけようのないあの状況を無理矢理収支決算する」という言い回しに触発され、そこから「オトシマエ」という言葉を軸としてストーリーを構築し、「天使の恍惚」のシナリオを一気に書き上げたとすれば、足立正生の著書「映画/革命」におけるシレっとしたウソも納得がいく、というものだ。足立が中平との固い友情関係の証として事実を歪曲して語れば語るほど、逆に安田南と「天使の恍惚」との深い関係性を疑わざるを得ないのは皮肉である。「天使の恍惚」が安田南を売りだすためのアイドル映画としての側面があり、物語の構造自体も安田南の文章の一節から発想されていたとすれば、ラストの「気狂いピエロ」と同じダイナマイトによる自爆死ほど、このヒーロー(あえてヒロインではなくヒーローと呼ぶ)に相応しい死に方はない。なぜなら「気狂いピエロ」のあからさまな引用は、引用と判らせることで意味があるからだ。ヒーローはヒーローを模倣する。1967年というフーテン風俗が全盛期の日本で公開された、「気狂いピエロ」の主人公の刹那的で享楽的な生き様は、公開当時の日本でもっともヒップだったフーテンたちが自己投影したヒーローだった。

安田南が出演した中津川フォークジャンボリーや箱根アフロディーテを始めとする、1971年8月に集中的に開催された6つのコンサートは、全て大規模な野外コンサートであるという共通点においてウッドストック・フェスティバルの影響下にある。天井のない野外は開放的であり、座席もないから一体感も生まれやすい。また火も使えるから大麻喫煙も出来るし、木陰に入ればセックスも可能だ。そんなヒッピー文化の集大成として位置づけられるウッドストックは、ヒップ ( hip )という言葉が「ヒッピー ( hippie ) 的な」という意味と同時に「時代の最先端を行く」という二つの意味を担っていた、ということの証左のように流行に敏感な若い世代を引き寄せた。その試みを日本で再現させようとしたのが中津川や箱根で開催された野外コンサートである。

フーテンとはそんなヒッピーカルチャーをいち早く日本で実践しようとした若者の日本的呼称だが、安田南もフーテンが風俗化する前にはその渦中にいたのは確かだ。モダンジャズ、性的放恣、ハイミナール中毒、その日暮らしなどフーテンを表徴する符牒はそのまま彼女にも当てはまる。ただ安田南はいわゆるフーテン族よりも年齢が少し上であり、いわば早すぎたフーテンではあったのだが、日本的呼称の「フーテン」を、アメリカでいうところの「プラスチック・ヒッピー」と同じような感覚で、うとましく捉えていたのではなかろうか。プラスチック・ヒッピー(もしくはウイークエンド・ヒッピー)とは「ヒッピーまがい」のことで、フーテンは「フーテン」に憧れて新宿へと集まるのと同様に、フーテンという言葉が「フーテン」を産み出すのであり、流行が過ぎれば、いつの間にか何処かに消え去ってしまうものである。しょせんはアメリカから来た輸入文化の上辺だけの追従に過ぎない。安田南は同様な眼差しで、ヒッピーカルチャー全般をも冷ややかに傍観していた。それは彼女のエッセイにある以下の部分をみれば明らかだ。

近ごろはやりのドロップ・アウトとかフリーク・アウトなんて、ゴムがおしゃかになった、ゆるゆるパンツがずり落ちるみたいなこと。それでコミューン作りましたと言ったって、あれは林間学校のキャンプファイヤー。垣根柵つき一見平和な嘘んこ自由。

ヒッピーの提唱する「自由」などウンコ(嘘んこ)のようなものだと言ってのけるそんな彼女が、フーテン的、ヒッピー的生き様のエンディングとして、青空に打ち上げられた花火のように晴れがましい「気狂いピエロ」的な破滅型爆死が、自分の役柄としてありがたくも与えられていることを知ったとき、シナリオをポイと放り投げたかどうかは知らないが、ヤレヤレ、なるほど自分はフーテンのヤク中で、紋切り型のウーマン・リブ的な70年代の最先端を行く悪女なんだ、とため息混じりにこうべをたれ、さぞウンザリしたことだろう。

安田南が持ち逃げしたとされる5万円という金額も、出演料の前借りということではなく、公安警察から身を隠すための当座の資金、といったものだろう。前述したエッセイ「かぼちゃ畑に月も出る」の中で、安田南はこの年の前年度(1970年)の年収が15万円だったと明記しているので、5万円もあれば十分だったと思われる。遁走するときに残された置き手紙に、朝霞自衛官殺害事件に関連する事情を書かなかったのは、置き手紙を書いた時点では朝霞の事件と関係なく、役をきっぱりと降りるつもりで書いたためで、それが本心からだったに違いない。安田南の降板、そして遁走はたまたま二つの事情のタイミングが重なったために引き起こされた騒動だったのではないか。

足立正生から安田南が行方知らずの知らせを受けた中平は、すぐさま事の真相を説明し賠償金も立て替えたと思われる。安田南の顔が写り込んでいるフィルムがジャンクされていないとすれば、中平が所有している可能性があるかもしれない。ただこれまで述べてきた推測が、全て単なる空想の域を出ないラリった妄言だったとすれば、「オトシマエ」は収支決算されないままだ。