安田南がいた時代(4)〜静かな最前線は何処にあるのか


安田南は表現とは何か、唄うこととは何かについて、いつも考えこだわり続けていた。それは彼女が遺した文章のはしばしに感じられるが、その自問は歌手である安田南にとって、唄うことをいつ止めるかという迷いと常に向き合っていることの表れとも感じられた。1978年2月号の雑誌「MORE」に掲載された加藤登紀子との対談においても、「私あまり先のことって……来年というぐらいだったらまだわかるけど、再来月はちょっとわからないって気がするのね」という、独特のねじれた表現で語っている。彼女が消息不明となるのはこの対談が行なわれた年である。ジャズシンガーにとって唄うこととは何かについて考えることは、ジャズのスタンダードナンバーが英語の歌詞であることから、日本人が日本人の聴衆に対して英語で唄うことはどういうことか?という問いかけと同義である。言葉=歌詞とそれの意味するものとの親和あるいは乖離に対するこだわりは、ときに次のような反語的な表現を含んだ文章によっても示されている。

渡米するミュージシャンは多いけれど、向こうで暮らして会話に不自由しないだけ英語を喋ることができても、やはり外国語は外国語。たとえ発音がよくても、イントネーションが見事だと賞められても、この際きっぱりと、わたしの唄う歌の英語は、もはや体で知る術のない言葉に意味を付与することをやめて、「記号」といってしまおう。記号を唄おう。記号を歌にして飛ばそう。

そんな安田南が日本語の歌詞で唄われる歌に対しては、「体で知る術」のある言葉であるからこそより慎重に、そして懐疑的になるのは当然のことだろう。「自由」や「望む」などの言葉が至極当たり前のように使われ、それを唄う歌手と聞き手との間に、何の疑いもなく信頼関係に基づいたコミュニケーションが成立している、という素朴な前提の上に立った、「メッセージソング」といわれている歌の有りようは、安田南を苛立たせるには十分だったと思われる。安田南が書いた文章で、中津川フォークジャンボリーでの出来事について振り返った「かぼちゃ畑に月も出る」というタイトルのエッセイがある。この会場には男女二人連れを見かけると、ギターケースに入れたコンドームを売りつけてくる男がいたそうだが、そんなウッドストック的な「愛と平和と自由」を押し付けてくる手合いと、メッセージソングとの相似を匂わせつつ、安田南は同じく中津川フォークジャンボリーに出演していた吉田拓郎岡林信康についてこのように述べている。

吉田拓郎というフォークシンガーを私は知らない。ただ彼が反岡林の一方の旗頭であるらしいことを誰かが教えてくれた。そしてフォーク界ではまず取りあえず誰かを批判することが自分の歌を確立することになるのだ。岡林も誰かを批判し、そこから自分の道を切り開いていったのだという下らなくも馬鹿馬鹿しい話も聞かされた。「うた」に思想があると思っては「うた」にも「思想」にも各々に申し訳のないことだ。「うた」は武器になりえない。武器といえばそれよりはるかに楽器の方が武器だといえる。ギターのボディでぶっとばされたりしたら痛いもんね。

既に神格化され絶大な人気を誇っていた岡林信康に対して、同時代にこれだけ辛辣な意見を言うのはなかなか勇気のいることだ。ただ安田南の批判の矛先は岡林信康だけではなく、「メッセージソング」全てに向けられている。そんな彼女が「天使の恍惚」で唄われる二曲の歌のうち、サントラに残されているのは「ウミツバメ」だけで、もう一方の「ここは静かな最前線」の音源はない。この二曲は言うまでもなく日本語の歌詞によって唄われる歌である。そして二曲ともに(ここは静かな最前線)という同じ歌詞が出てきて、元歌とアンサー・ソングという双子のような関係になっている。安田南が十代の頃から知り合いの、山下洋輔トリオとの息の合った掛け合いは見事だが、このセッションにおいてなぜ「ウミツバメ」だけが唄われ、「ここは静かな最前線」が唄われなかったのだろう。繰り返しになるがこの二曲は元歌とアンサー・ソングという双子のような関係で、このセッションが行われた時点で「ウミツバメ」の曲だけが出来ていて「ここは静かな最前線」が出来ていなかった、とは考えにくい。

ここに掲げたのはその二つの曲の歌詞であるが、比較してみると歴然とした違いがある。「ウミツバメ」の歌詞は洗練され、より詩的に昇華されていて、歌詞の中にある(ここは静かな最前線)という部分も聞き手の取りようによって、どうとでも解釈が可能である。それは例えば暗闇で爪を研いでいる孤独な魂が、ぎりぎりの所で均衡を保っている、表面上は穏やかな精神の事かもしれない。「静かな」という形容があることによって、その前にたとえ「戦場」という言葉があろうとも「最前線」という言葉の抽象度を高めている。それに対して「ここは静かな最前線(曲名)」の方はというと、歌詞の中に(武器を握りしめ敵に出会う)というフレーズがある。このフレーズだけはメロディがなくモノローグ風につぶやかれていることから、特別な意味を付与されていることがわかる。またその前に出てくる、「ここは静かな最前線 だからといって寂しくはない あつくはない ただ歩く進む ため息すら溢れず 乾ききった涙の痕も忘れて」の通俗的かつ散文的な歌詞に対して、「ウミツバメ」の歌詞にある「ほてったホホにはもってこいの 凍てついたアスファルトのベッドがある 破れた旗をつくろう 銀の針はいらない」の詩的想像力を喚起させる抒情性とを比較すると、言葉に向きあう作詞者の姿勢が全く異なるといってもいい。映画のエンドロールに出てくる作詞者は出口出という共同ペンネームとなっていて、この二曲はそれぞれ作詞者が違っていても不思議ではない。より具体的に言えば「ここは静かな最前線」の作詞は「天使の恍惚」のシナリオを書いた足立正生で、「ウミツバメ」の方は作詞作曲とも秋山ミチヲであると思われる。

安田南はこのセッションが行われた年の八月に開催された、中津川フォークジャンボリーについてのエッセイの中で、「『うた』は武器になりえない」と書いている。その「武器」という言葉をそのまま歌詞に持ち込んだ、「ここは静かな最前線」に対して、とっさに身構え警戒心を持ったと思う。安田南がいつ「ここは静かな最前線」の歌詞を知ったのかはわからないが、いずれにせよセッションには臨んだのだから、声に出して「武器」と唄ったときに初めて理解し得たことがあったのだ。それはこの歌詞がなんら抽象的な表現ではなく、「武器」は武器であり「最前線」はそのまま戦場における最前線だということを。つまり「ここは静かな最前線」が具体的な「思想」を伝えるメッセージソングだと気づいた時、安田南は自分の置かれた立場に愕然としたに相違ない。それは「『うた』に思想があると思っては『うた』にも『思想』にも各々に申し訳のないことだ。」と文章に綴った他ならぬ自分自身が、「思想」を「うた」に込めたメッセンジャーとなってしまうことである。

安田南にとって「思想」の内容が問題ではなかった。それが爆弾闘争であろうと戦争反対だろうとウーマン・リブであろうとも。「うた」は「うた」でありそれ以外にはありえない。「うた」は「思想」を伝える手段ではないし、「思想」は「うた」をもって伝えられるものでもない。「『うた』に思想があると思っては『うた』にも『思想』にも各々に申し訳のないことだ。」とはそういうことであろう。

「天使の恍惚」公開直前のサンデー毎日若松孝二桐島洋子との対談が掲載されている(1972年3/12号)。これは映画公開に合わせたパブ記事に近い内容だが、「天使の恍惚」製作中止キャンペーンを張ったのが他ならぬ毎日新聞だということを考えると不可解ではある。だが川本三郎が著書「マイ・バック・ページ」でも書いているように、同じ会社系列だからこそおきる、新聞と週刊誌との反目が存在するのであれば別だ。それはともかくこの対談の中で桐島洋子から製作意図を尋ねられ、若松孝二は次のように語っている。

例えばフォークを歌って革命が起こり、世の中変わるんだったらオンチでも何でもうたえる。お話し合いで何かできるんだったら、みんなお話し合いをするだろう。しかし、それじゃ何の足しにもならない。やっぱり権力とか体制側には暴力を持ってやる以外には世の中変わらないと、僕は思っているわけですよ。

安田南が「天使の恍惚」出演を引き受ける前に、もし若松孝二と事前の話合いが行なわれていて、映画製作の意図についてこれと同じ話を聞かされていたとするならば、安田南がシナリオもろくに読まずに即断したと思われる理由はこの一点だと考えられる。「例えばフォークを歌って革命が起こり、世の中変わるんだったらオンチでも何でもうたえる。」

安田南が出演したシーンが撮影されたのが1971年11月28,29日の両日で、遁走したとされるのが12月1日であるから、山下洋輔トリオとのセッションは、撮影が終わった11月29日か30日のどちらかであろう。「ここは静かな最前線」の音源が残されていない推論が正しければ、撮影前にセッションが行われたとは考えにくいからだ。またシナリオも読まずに出演を引き受けるという、オッチョコチョイぶりもつとに有名で、プロポーズにウン!と即答しておいて、その後の事はほったらかしだったという、自ら語っているエピソードを紹介すれば十分だと思う。「ここは静かな最前線」の歌詞に対する違和感をきっかけとして、初めてシナリオにちゃんと眼を通したとき、自分の演ずる役柄にあまりにも「安田南」像が投影されているのを知り、さらに驚いたのではなかろうか。安田南は当時、重度のハイミナール中毒で、いわゆるラリパッパ状態のハイテンションまで役柄のキャラクターとしてシナリオに反映されていたからだ。

「ここは静かな最前線」を唄う横山リエと、唄い終わった直後から始まる山下洋輔トリオの演奏シーン。もし安田南が「ここは静かな最前線」を唄っていたならば、このシーンは中津川フォークジャンボリーの幻のステージの再現となるはずであった。安田南のステージはトリから二番目で、暴徒の乱入によってステージが中止された。そのアオリをくって安田南とともに全く演奏出来なかったのが、トリを務める予定だった山下洋輔トリオである。
補足=「ウミツバメ」と「ここは静かな最前線」の歌に混同が生じている原因は、渚ようこのアルバム「あなたにあげる歌謡曲 其の一」にあると思われる。ここで取り上げられている曲は「ウミツバメ」だが、曲名をインパクトのある「ここは静かな最前線」と変更しているからだ。現在、本来の「ここは静かな最前線」が唄われることはなく、もっぱら「ウミツバメ」=「ここは静かな最前線」ということになりつつある。