安田南がいた時代(3)〜「抱かれる女」から「男を抱く女」へ

安田南が最初に雑誌に取り上げられたのは、昭和44年(1969)10月号の「主婦と生活」であった。「平凡パンチ」や「プレイボーイ」などの男性週刊誌ではないのがやや意外な感があるが、タイトルが「あなたはどう思う?“セックス”と“家出”と“女の幸せ”」と題する手記形式の記事で、記事の最後は安田南の考え方に対して読者の意見を編集部宛に募る、という問いかけで終わっている提言記事である。「何人もの男と同棲を繰り返し、平気でセックスを語る現代女性である」とこの記事のリードにあるように、安田南はマスコミ初登場の時点から性的に奔放な女というイメージが付いて回った。このイメージを決定づけた、と思われるのがこの二年後に書かれた、瀬戸内晴美(寂聴)の「安田南〜この華やかなる放下流浪〜」というエッセイで、「現代俳優論」というシリーズの30回目であった。執筆者は毎回異なり、取り上げられた俳優は他にカトリーヌ・ドヌーブ唐十郎立川談志などで、知名度の点から見ても安田南を扱ったこの回は異色だった。このエッセイによって初めて安田南を知った人も多かったのではないか。しかも掲載誌が安田南とは何かと縁がある「朝日ジャーナル」1971年4/9日号である。

瀬戸内晴美が安田南について書いたエッセイが掲載された1971年4/9日号というのは、「朝日ジャーナル」にとっても分岐点のような時期にあたる。4/9日号の三週前にあたる、外人女性のヌードを表紙に使った3/19日号が、赤瀬川原平の連載マンガ「櫻画報」最終回の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」が新聞協会筋からクレームが入り、当該号の自主回収騒動となる。その後、関係者の処分、5月の大幅な人事異動へと発展する変動期の只中での掲載だった。自主回収に関しては具体的な説明が朝日新聞社からなかったため、クレームという外圧の形をとった、三里塚闘争支持や新左翼寄りの記者を一掃する狙いがあった、ともされている。5月の人事異動によって「週刊朝日」から「朝日ジャーナル」へと配置換えされたのが川本三郎である。したがって、瀬戸内晴美によって書かれた「安田南〜この華やかなる放下流浪〜」の担当編集者は川本三郎ではないが、彼がこのエッセイを読んでいたのは言うまでもないであろう。中津川フォークジャンボリーの開催はこの年の八月であるから、川本三郎には予めこのエッセイによって得た「安田南」像がインプットされていた、ということになる。

「安田南〜この華やかなる放下流浪〜」は三つの小見出しがあり、それぞれ「虚無と生気」「天衣無縫」「権威も及ばず」となっていて、このエッセイを要約する的確な表現となっている。以下に印象的な部分を抜書きしてみる。

最初彼女をつれてきた青年は一見おとなしそうな顔や体つきのくせに、相当タフな女たらしとして自他共に認めていた人物だったが、その彼が、こんなチャーミングな女の子見たことがないと絶賛して前宣伝していた。ベッドでの彼女が最高にシックで、その前後の雰囲気もまた日本人離れして抜群であるというのである。しかし、彼につれられてきた彼女は、大きい目玉をぎょろっとさせ、短いざんぎり頭に、化粧ッ気もない、身長ばかり育ちすぎたガキにすぎなく、女としての魅力などどこにあるのか、とんとわからなかった。無口でほとんど笑わない。手と足の美しさだけを印象に残して、彼女は去っていった。

二ヶ月足らずのつきあいで例の青年は南からふられてしまった。「彼はとても上手だけれどそれだけなんだもの。南、あれが下手な人は厭だけれど、そればっかりでも退屈しちゃう」。南の語るふった理由だった。その青年以来、私は南の目下の恋人とか、フィアンセとか、同棲中の男とかいう名目の人物を十指に余るほど見せられている。自分は大柄なのに彼女の相手はいつも小男かやせっぽちなのが共通していた。

ズベ公でもフーテンでもない。つきあった男(もちろんセックスで)は七十人だとか八十人だとかケロリとして口にしているけれど、色情狂でもない。横で見ていると、ちょうど靴でもはきかえるように男を変えているだけの話だ。

「ズベ公でもフーテンでもない」のに性的に放恣だ、という記述はこのエッセイが書かれた1971年という時代を象徴している。性的放恣はこれまで常にズベ公やフーテンなどの「不良」の専売特許だったものが、男に反旗を翻しアクチュアルに生きる現代女性のイメージとしてパラダイムシフトされたのがこの年の前年にあたる1970年からだった。それはこの時代に台頭してきたウーマン・リブという女性解放運動の俗流解釈として、当時のマスコミによってもっとも広められ浸透したイメージである。いわゆる「抱かれる女」から「男を抱く女」への変換であった。女の側からみたセックステクニックを初めて図解で見せた雑誌「微笑」の創刊が71年だったし、「私生児」という終戦直後の冥い記憶が染み付いた言葉から、私生児を生む女の意志を感じさせる「未婚の母」という言い換えが積極的になされたのも71年からだった。桐島洋子加賀まりこ緑魔子らが未婚の母という名のヒロインとして女性週刊誌を賑わせた。

安田南と同じ1943年生まれで、ウーマン・リブ運動の日本における先駆的指導者として知られる田中美津が書いた「田中美津、『1968』を嗤う」という文章がある(「週刊金曜日」2009年12/25日号に掲載)。『1968』は慶大教授の小熊英二による全共闘運動を分析した大著で、その17章がウーマン・リブ田中美津について論じられている。「田中美津、『1968』を嗤う」は田中美津がその17章における自分自身に関しての記述における「誤読と捏造」について詳細に指摘した文章である。その中で小熊英二が、喫煙者でもない田中がタバコをふかしていた、と記述している部分に対して、田中自身はこう分析している。

二十七歳の「オールドミス」のフリーターが、あぐらをかいてタバコをふかす。小熊氏が描く「私」って、70年代にマスメディアが作り上げた、男に反旗を翻す女の悪イメージそのものだ。

「あぐらをかいてタバコをふかす」という行為が、マスメディアの俗流解釈によるウーマン・リブのアイコンとなって不当に押し付けられている、と田中は書いているが、「あぐらをかいてタバコをふかす」はそのまま安田南の一般的イメージといってもいい。「Some Feeling」のアルバムジャケットはあぐらをかいているわけではないが、それに近いバリエーションであることは確かだ。しかも27歳という年齢と未婚であること、定職についていないところまで田中と安田は同じである。しかし安田南はウーマン・リブ的であろうとしてタバコをふかしたわけではないし、性的放恣をウーマン・リブ的に実践したわけでもない。もしも仮に安田南がウーマン・リブについての歌を唄うなり、文章でアジテーションしていたならば、間違いなくリブ界の岡林信康になっていたはずだ。しかしそうはしなかった。またウーマン・リブ運動に積極的にコミットしようとしたのでもなかった。

ところで「抱かれる女」から「男を抱く女」への変換を初めて提言したのが、他ならぬ川本三郎が在籍していた時代の「週刊朝日」だとしたら、あまりにも出来過ぎたお話だろうか?70年代のウーマン・リブ運動を最初に紹介したのは「週刊文春」1970年9/11日号で、「性の政治学」の著者であるケイト・ミレットがたまたま日本に留学経験を持ち、夫が日本人であったことから、ウーマン・リブ運動そのものではなくケイト・ミレット本人に関する記事であった。「全米ウーマンパワーの指導者は日本人の妻」というタイトルで、この記事ではまだウーマン・リブという言葉は使われておらず、「ウーマンパワー」とされていた。

英語ではWomen's Liberation 略して Women's Lib(ウィメンズ・リブ)となるところを、日本語として発音しやすいようにウーマン・リブとして、初めて雑誌記事のタイトルとして使ったのが「週刊朝日」1970年11/13日号で、ここに掲げたのがその表紙である。少女モデルは保倉幸恵で、映画「マイ・バック・ページ」では忽那汐里が印象的に演じた。保倉幸恵は1975年に22歳の若さで自殺している。積み上げられた本の中には三島由紀夫暁の寺」(三島事件は今号が発売された直ぐ後の11月25日)、ソルジェニーツィンの「ガン病棟」、沼正三家畜人ヤプー」、羽仁五郎「都市の論理」が四冊並んでいて、これは川本三郎の所有している本ではないか、と思われるほどだ。ウーマン・リブ座談会『「抱かれる女」から「男を抱く女」へ』は雑誌ロゴのすぐ下にあり、文字の大きさからみてもこの記事がトップ記事であった。この座談会には田中美津(ぐるーぷ・闘うおんな)も参加している。

川本三郎の著書「マイ・バック・ページ」で触れられているわけではないが、このウーマン・リブ座談会が川本による企画ではないのか、と思われる理由は以下に挙げる三つである。まず第一にウーマン・リブは米国が発祥の地であることで、アメリカのカウンターカルチャーに精通していた川本にとっては、もっとも得意とする分野であること。二つ目はこの座談会の司会が、なだいなだであることで、ウーマン・リブ運動にとって避けては通れないセクシャリティの問題について、精神科医と作家の肩書きを持つ、なだいなだに司会を依頼するという着眼点に川本三郎らしい見識を感じること。そして最後は座談会の中で、ウーマン・リブ学生運動との関わりについて話し合いがなされていることである。ウーマン・リブ運動を日本でいち早く取り上げた仕掛け人が川本三郎だとすれば、瀬戸内晴美のエッセイによって描かれた「安田南」像こそ、「抱かれる女」から「男を抱く女」への変換をいち早く体現する日本人女性として、川本の眼にはうつったに違いない。ロック好きの川本が箱根アフロディーテではなく、八月の同時期に開催された中津川フォークジャンボリーを取材先に選んだのは、最初から安田南が目当てだった可能性もある。

「天使の恍惚」には二人の女性兵士が登場するが、セックスシーンにおける二人は共に、男に抱かれるというよりは男を抱いているように見える。その視点にたてば例の背中合わせのセックスシーンも、男が上になる正常位ではなく、男女ともに相手を抱くという対等関係をシンボライズしているともいえる。朝霞自衛官殺害事件のKが創設した赤衛軍にも二人の女性がいたが、赤衛軍が当時の週刊誌でシャロン・テート事件で有名なマンソン・ファミリーに例えられたように、Kのカリスマ性に魅せられた従属的な関係だったようだ。足立正生が「天使の恍惚」に登場する二人の女性を、男性と対等な立場として設定したことは、荒砂ゆき演じる「秋」は重信房子として、また横山リエ演じる「金曜日」は「安田南」として、二人ともにマスメディアが作り上げたウーマン・リブの文脈の延長線上にある、「男(=男によって支配された国家権力)に反旗を翻す女のイメージ」の具象化のような気がしてならない。そして安田南が役を降りたもう一つの理由がおそらくそこにある。それは安田南が「平和」とか「夜明け」とか「自由」などの言葉に満ちた、当時隆盛を極めたいわゆるメッセージソングを決して唄わなかったことと繋がっている。