安田南がいた時代(2)〜安田南とイメージとしての「安田南」

安田南遁走のゴシップは同時代の映画雑誌ではどのようにあつかわれたのか。例えば「映画評論」という雑誌は「少年マガジン」や「朝日ジャーナル」と並んで、全共闘世代には最も読まれていた映画雑誌である。ひなびた商店街の片隅にひっそりとある、昔ながらの古本屋に、今でも1970年前後のバックナンバーが埋もれていたりするのはそのためであるが、その中に「ゴシップ・サウンド」というコラムがあり、編集長である佐藤重臣自らが、新宿ゴールデン街などの人脈を通して拾ったネタや、業界こぼれ話などが面白おかしく書かれていて、硬派な映画論が居並ぶ中で異色の息抜き的なコラムだった。また雑誌「映画評論」は若松孝二を最も初期からフォローしていたことでも知られていた。ところがこの「安田南が途中降板し若松孝二から五万円持ち逃げ」という、ゴシップとしてはこれ以上にない題材が、このコラムでは一切扱われていないのだ。このことは次に挙げる二つの憶測を呼ぶ。まずこのゴシップが単なる遁走劇ではなく、シャレにならない深刻な事情を孕んでいるのではないかという事と、若松孝二が安田南に対する怒りの会見をした直後に真相が明らかとなり、金銭的な問題もこじれることなく解決したのではないか、ということである。雑誌「映画評論」は週刊誌と違って月刊であることから、入稿の締め切りまである程度の時間的な余裕があるが、もし若松孝二の会見から解決までの時間が長引いていたとすれば、「ゴシップ・サウンド」の恰好の餌食となっていたはずなのだ。事の真相がすぐに明らかとなり、その事情が深刻だったからこそコラム「ゴシップ・サウンド」では扱われなかったのだと思われる。ちなみにキネマ旬報にもこの件は書かれてはいない。

このゴシップを取り上げた雑誌は前章でもふれた通り、確認できる範囲では「週刊平凡」と「週刊文春」のみであった。週刊文春の記事は以下のような書き出しで始まる。

映画の主演女優が、作品の凄さに恐れをなしてか撮影のまっ最中に遁走した。安田南。聞かぬ名だが、若松孝二がATGと提携して製作する1,200万円の“超大作”、「天使の恍惚」に出演させるため、新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ(そうは見えぬが)だったらしい。

ここでいうタマとは時代劇などでよく使われる上玉の「玉」と同じく美人の意で、この記事に添えられた写真がここに掲げた写真である。カッコ付きで(そうは見えぬが)と但し書きが付いているのは、この記事を書いた記者が若松プロから提供されたこの写真を見ての感想であるから、タマ(美人)という言葉とそれにかかる「新宿で見つけて女優に仕立てようとした」は記者の言葉ではなく、若松孝二自身の発言からとられたことがわかる。「新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ」という物言いは、せっかく女優に仕立てようと思ったのにお金を持ち逃げされた、という忌々しさとともに、「仕立てようとした」という言い方が妙に引っかかる言い回しだ。それは横山リエが演じた役は、あらかじめ安田南を想定して書かれ、そのことによって安田南を女優に仕立てようとした、ということの表明ではないのか。この「女優に仕立てようとした」という表現が持つ違和感は、足立正生が「天使の恍惚」における安田南との繋がりと、それに絡む中平卓馬の関連性を、ことさら無かったかのように説明する不自然さと地続きになっている。この点の確認作業に入る前に、まず手始めとして、撮り直したとされる「天使の恍惚」の映像を検証することから始めてみたい。

週刊文春に掲載された写真の安田南は髪が随分と長く、「天使の恍惚」出演時の横山リエの髪型と似ていて、横分けのショートといういつもの安田南の定番スタイルとは違う。週刊文春のいうように「二十分にわたるリンチとベッド・シーン」が撮影され、彼女の遁走によって撮り直しを余儀なくされたとするならば、撮り直しをするシーンは予算や時間の関係からいっても最小限度に留めるのは当然だろう。つまり横山リエが写り込むショットだけを撮り直し、残りは安田南の撮影時に撮られたショットと繋ぐ、ということだ。そのあたりのノウハウは撮影日数や予算の限られたピンク映画で若松孝二が培ってきた経験と実績がある。横山リエが写っているショットとそれ以外のショットに食い違いが見つかれば、撮り直しがされたことの証明となる。

リンチの場面は一度しかないから直ぐにどの場面か特定することができる。冬軍団二月組が金曜日(横山リエの役名)の部屋を急襲し、横山リエをリンチして、部屋にある爆弾の隠し場所を白状させる場面である。若松孝二の映画では人件費節約のためにスタッフがチョイ役で紛れ込むことがよくあるが、この映画もその例に違わず、冬軍団二月組の一人として足立正生が登場する。向かって左側の場面の足立正生は、ボタンが隠れる内ボタンの上着を着用し、襟元からは白いTシャツらしきものが見える。また、ベッドシーツがめくれていてマットレスの花模様が見えている。それに対して右側の同じ場面での足立正生は、ボタンの見えるカーディガンと黒っぽいシャツとを重ね着していて、襟元はよく見えない。またベッドシーツは乱れておらず、花模様は見えていない。したがってこの場面は時間を隔てて撮り直しされたことが分かる。二つの場面とも横山リエが写っているではないか、と思われるかもしれない。しかし左側の場面では、女性の後ろ姿しか見えておらず、誰なのか特定できない。それに対して右側の場面では、リンチに苦悶する横山リエの横顔がはっきりと見える。映画では後ろ姿の女性と、正面から捉えた半裸の横山リエのショットを交互にカットバックして、後ろ姿の女性が横山リエだと直ぐ分かるように編集されている。しかし、右側のシーンは撮り直しされていることから、後ろ姿の女性とそれを含む場面は、撮影済みのショットの流用である、と考えていい。つまりこの後ろ姿の女性は安田南である、と問題提起を含めて敢えて断言してしまうこととする。映画を見ていただければお判りになると思うが、後ろ姿の女性は顔が判別できないまま、ビンタを受けたりしていて時間的にかなり長く、フィルムでいえばフィート数がある。流用できる部分があれば、これを顔が判らないまま横山リエであえて撮り直す必要性は全くないのだ。

次に安田南が演ずる予定だった「金曜日」という役柄に、どの程度、「安田南」像が投影されているのかを考えてみたい。それを考えることによって「天使の恍惚」と「安田南」との関連性が高いか、低いかが浮かび上がるはずだ。ここで安田南をカッコ付きで表記したのは「安田南」という、足立正生によって創造された「イメージとしての安田南」という意味で、それは彼女を語る上でよく使われる「伝説」という形容が似合う「安田南」のことである。

極めて当たり前の事だが、まず第一に「金曜日」がクラブ歌手として設定されていることがあげられる。特に終盤近く、車ごと自爆する前に、約6分間に渡って「ここは静かな最前線」を唄う、とっておきの「歌手としての見せ場」が用意されている。音楽映画でもない映画で、6分間も続く歌唱のシーンがある映画はちょっと他に前例がないのではないか。しかも、高度に演劇的な歌い方を要求されていて、その後に「最前線に行かなければ!」というセリフと共に、車のフロントガラス越しに見える国会議事堂がインサートされ、モノクロからカラー画面となって、富士山の前で車ごと自爆するという「演劇的な死」へと連なる序曲のような歌だ。横山リエも悪くはないが、やはり6分間はあまりにも長く、演劇的な歌唱法をこなし切れていない。「天使の恍惚」のサウンドトラックCDに収録されている、「ウミツバメ Ver.Ⅱ」の安田南の唄を引き合いに出すのは横山リエに対して申し訳ないが、やはり雲泥の差がある。「演劇センター68/71」などの芝居において歌姫だった安田南だからこそ可能なシチュエーションである、といえるのではないか。

二番目にあげられるのは、「金曜日」の伝法な口のきき方である。これはもう一人の女性兵士、「秋」こと荒砂ゆきの落ち着いた口調との落差が大きく、その鮮やかな対照によって「金曜日」の勝気な性格が引き立つようなシナリオとなっている。「壊せ、壊せ、全部壊せ」「何が日和見だ、根拠を言え!」「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」などのセリフであるが、特に小野川公三郎演じる「土曜日」に対して云う、「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」というセリフは強烈だ。「土曜日」は他のメンバーからも子供扱いされているが、それは彼が「半ドンの土曜日」と云われているように、理論が先行して行動が伴わない学生活動家だからであろう。「半ドン」という言葉はいまや死語だが、土曜日は半日だけ、という学生生活と、半人前との両方の意味を兼ねている。「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」は「土曜日」に爆弾を手渡しながら横山リエが云うセリフで、理論をわめくだけの学生に対してもっと主体的に実践活動してみろ、という啖呵だ。

このセリフで思い出されるのが、安田南が中津川フォークジャンボリーでコンサートを妨害する学生に言い放った「テメエら甘ったれるんじゃねえよ!」である。親の仕送りで生活していながら、一人前に「資本主義に侵されたコンサートを粉砕する」などとわめいている学生連中に対して云った言葉は、川本三郎にも強烈な印象を与えたように、その場に居合わせた学生や若い世代(それは「天使の恍惚」の観客でもある)のクチコミによって半ば伝説化していったと思われる。それがあるから、「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」は安田南によって云われるべきセリフとして書かれたのではないか。安田南=勝気で言いたいことははっきりと言う、と思われている本人が「金曜日」として発言するからこそ、このセリフがより生きてくる。

三番目はやや情緒不安定気味な態度と馬鹿笑いである。安田南の馬鹿笑いに関しては本人がエッセイで触れているので引用する。

(気まぐれ飛行船が)スタートして、いつのまにか二年半あまり経ってしまったことに気づく。いくぶんは上達したといえば……ただ会話のあいまに安心した馬鹿笑いを時折さしはさむようになったくらいかな。前後がおどおど自身なげな小声で、突然大声で笑ったりするものだから、寝ている家人や隣近所に気兼ねしてヘッドホーンで聴いている人を、そのたびにびっくりさせてしまう。この無意味ともいえる馬鹿笑い、照れであったり、何も言わないよりせめて笑ってもみたりした方が、いいのじゃなかろうかだったり、なんとも言いようがない時の精一杯のゴマカシであったりするのだが、それにしても、まったくらちもないことだ。

このDJにあるまじき馬鹿笑いや、その場の感情に流された、計算されていない自然な感情の発露が、ラジオ番組「気まぐれ飛行船」の人気を支えるものの一つであったことは、多くの聴取者の証言するところだ。「天使の恍惚」の横山リエは、突然突拍子も無い歌をわざと音痴に唄ってみたり、馬鹿笑いや目線を泳がせたりして戯画的に演じてみせているが、やはり演技が見えてしまっているようなぎこちなさが残る。安田南が「安田南」を演じたらどうだったのだろうか。

最後はやはりなんといっても「金曜日」という役名であろう。吉澤健をリーダーとする10月組はメンバーがそれぞれ曜日名で呼ばれている。曜日は太陽系の星の名前から採られていていることは言うまでもないが、シナリオでは星が持つ象徴的な意味をある程度、役柄に反映させていることは明らかだ。例えば「月曜日」と呼ばれる男は、月=狂気であり、一人で破滅的な行動をとる。「土曜日」は土星であり、曜日名で使われている星の中では最も太陽から離れた星であることによって、他のメンバーとは遠くに位置する異質な存在=子供(学生)であることが示されている。占星術的にいえば土星は試練と結びついていて、「土曜日」が爆弾を手にして街中に飛び出していくことが、子供から大人への成長という試練を乗り越える寓意となる。そして「金曜日」といえば金星=ヴィーナス(美の女神)である。更にもうひとつコジツケついでにいえば、スチールでも有名な背中合わせのセックスシーンも、金星だけが他の星と違って逆方向に自転しているということのアナロジーといえなくもない。60年代末から流行した、セックスを媒介とした宇宙的なサイケデリック幻想の残影も感じられる。足立正生にはその名も「銀河系」という夢想的な代表作があるから、曜日名と星との関連を結びつけて、観念のお手玉遊びをしたとしても不思議ではない。

ここまで検証してきたように、「天使の恍惚」における「金曜日」が安田南を想定して書かれたことが確かだとすれば、冒頭でふれた週刊文春の「新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ(美人)」という、若松孝二の発言がにわかに現実味を帯びてくる。ところが安田南は五万円を持って遁走してしまった。それは川本三郎が絡む朝霞自衛官殺害事件の余波だけが理由だったのであろうか。それなら彼女が残したとされる置き手紙に、それなりの理由を書き残すとかしたはずで、それがなかったからゴシップ騒ぎとなった。もっともそれが出来ないからこそトラブルメーカーと呼ばれたのかもしれない。彼女のエッセイにこうある。

もし自分の専属のコンボ・バンドを持つなら「安田南とトラブル・メーカーズ」はどうだと言われるくらい、行く先々で問題の種まきをしてしまう結果となる。

週刊文春によれば置き手紙には「内容がよくわからないし、思想的にあわない」とあったようだが、これが遁走のための単なる方便だったのではなく、むしろ本音と思えるのは、安田南は「安田南」を演じることにウンザリしていたからではないのか。それは安田南のデビューからの足跡を辿ることによって明らかになる。