鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(2)〜舞台を再現した映画としての「肉体の門」


鈴木清順肉体の門」は当初、浅丘ルリ子主演で企画された。同年9月に「肉体の門」よりほぼ四ヶ月遅れで公開されることになる団令子主演、恩地日出夫監督の「女体」も、田村泰次郎の小説「肉体の門」が原作だが、二作品共に映画化権を取得したのが同じ時期で、ここに取り上げた記事はそのことを伝えている。日活と東宝で競作となった「こんにちは赤ちゃん」に続き、「肉体の門」が競合するので見出しが「こんどはお色気の競作」となっている。鈴木清順肉体の門」にパンパンとして登場する五人の女優が全て日活専属ではないのは、リンチシーンやヌードシーンを吹き替えなしでやる、という方針を拒否したことで、浅丘ルリ子をはじめとする日活女優全員が降板したためである。スターである浅丘ルリ子を外し、これが映画初出演となる新人の野川由美子を起用してまで、なぜ吹き替えなしで映画化することにこだわったのか。それはリンチシーンやヌードシーンを編集やカット割りで映画的に処理するのではなく、あくまで空気座による舞台「肉体の門」を映像としてみせることを優先させたためだと思われる。リンチシーンやヌードシーンを顔を除いたアップで撮り、表情のアップと繋ぐという方法を取らずに、体全体をワンショットに収めなければ、舞台的な臨場感を出すことができない。

映画冒頭に、敗戦後に林立したバラック建てのマーケットをキョロキョロしながら歩くマヤ(野川由美子)のバックに、しわがれた声で唄われる曲が流れる。「こんな女に誰がした」のフレーズで有名な「星の流れに」という曲で、使われているのは菊池章子が歌うオリジナル音源ではなく、この映画が公開された昭和39年(1964)ごろ、R&B歌謡を歌っていた青山ミチを思わせるドスのきいた歌い方だ(歌手は不明)。この映画が公開される十年前の、昭和29年(1954)に出版された丘十四夫「歌暦五十年」にはこの歌に関して次の記述がある。

敗戦と共にやってきた生活難とともに、肉体を提供して生活の資とするパンパンが街にあふれてきた。終戦直後21年には立川や有楽町に発生し、当時五百名ぐらいだったものがこの年(昭和22年のこと、歌謡曲「星の流れに」、舞台「肉体の門」が共に大ヒットしていた頃=筆者注)には数千を超え、最初はモンペやサンダルといった服装が進駐軍を相手にかせぎ、特異な存在で文学や映画、演劇、流行歌もこれらを主題としたものが現われた。ことに田村泰次郎原作「肉体の門」を上演した空気座は、半裸の娼婦群とリンチ場面で人気を呼び、清水みのる作詞の流行歌「星の流れに」の「こんな女に誰がした」は時代の流行語となり、つづいて姉妹歌「こんな女と誰がいう」が出て世の非難をあびた。

「星の流れに」の姉妹歌としてあげられた「こんな女と誰がいう」は、「星の流れに」と同じ清水みのる作詞で、マキノ正博監督「肉体の門」の主題歌であり、この映画に主演した轟夕起子が歌ってヒットした。パンパンを主題とした文学や映画、演劇、流行歌はこの時代の息吹と連動して集中的に登場した。鈴木清順肉体の門」の冒頭に流れる歌が「星の流れに」だったのは、単にこの時代のヒット曲だったからではなく、この歌以外ではありえなかった必然性があったからだし、ドスのきいた歌い回しが、この映画が公開された1964年の空気感も体現していた。鈴木清順肉体の門」の脚本を書いたのは棚田吾郎といい、「星の流れに」のヒットによって後追い的に映画化された、山本薩夫監督「こんな女に誰がした」(昭和24年公開)の脚本にも名を連ねている。棚田はパンパンがたむろしていた時代からのシナリオライターであり、彼が舞台「肉体の門」をよく知る人物だったことで起用されたということだろう。新潮文庫版「肉体の悪魔肉体の門」の解説を書いている奥野健男によれば、「この芝居を見ないと戦後の日本人として何か資格に欠けるような気がして、インテリも学生も労働者も、帝都座に押しかけて行った」とある。

鈴木清順肉体の門」には二重写しが多用されているが、二重写しの場面がひどく唐突な印象を与えるシーンがある。それは隠れ家に怪我をして闖入してきた伊吹新太郎(宍戸錠)に、マヤ(野川由美子)が「早く出て行け!」と怒鳴られ、出入口の階段に登りかける直前に現れる、鬼のお面を頭に引っ掛けた伊吹との二重写しのショットである。これは後になってマヤのセリフで、伊吹がマヤの兄に似ている、という思い出として鬼の面のエピソードが説明されるが、最初は何のことか分からずビックリさせられる。このシーンが稚拙な感じを与えるのは、二重写しが始まった途端に画面全体の色調が少し白っぽくなり、単なる技術的な欠陥であるかのような印象を与えるからだろう。それはかつて特撮の手法だったスクリーン・プロセスよって合成された二つの画面が、明らかに画面解像度が違って見えたことと似ている。だが例えば人妻の町子(富永美沙子)のリンチシーンに被る、マヤの顔のアップが非常にスムーズで違和感のない二重写しになっていることを考えると、このシーンは意図的に稚拙めかしているのではないか?

そう考えたのは無茶を承知でいわせてもらうと、このシーンにおける二重写しが、舞台「肉体の門」における幻燈の使用をなぞっているのではないのか、と思ったからだ。客席の方角から舞台に向かって強い光源を当てると、光源の影響で舞台全体が一瞬、白っぽく浮かび上がる。舞台「肉体の門」がグラン・ギニョール座に影響されていることは前章で述べたとおりだが、グラン・ギニョール座が色々な技術を用いて、舞台におけるショック効果を試みていたことは、2010年に出版された「グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇」のアニェス・ピエロンによる、日本語版に寄せた序文でもうかがい知ることが出来る。以下その一部を引用する。

日本の伝統文化とグラン=ギニョル劇の類似点を示す三つの例を挙げてみることにしよう。ピエール・ロティは「お菊さん」(1887)の中で自らの日本体験を語っている。(中略)「この登場人物は明らかにこの劇において邪悪な役を演じている。それは腹黒く血に飢えた、年老いた食人鬼にちがいない。最も恐ろしいのは、白い幕の上にくっきりと映し出されたその影である。どういう仕掛けなのかはうまく説明できないが、その影はまるで本物の影のように老婆の動きに従っているものの、狼の影なのだ……」。特殊効果で怖がらせること、これもまたグラン=ギニョル劇のねらいである。

この序文で解ることは、日本の芝居において明治時代より光源を用いたショック演出をしていたことと、グラン=ギニョル劇も特殊効果で怖がらせることを狙いとしていたことである。秦豊吉がパリでグラン=ギニョル座を観劇し、舞台「肉体の門」をプロデュースした際に力を入れたことは、リンチシーンにおける凄惨なエロティシズムとともに、戦前からある幻燈を用いてある種のショック演出を考えたであろうことは十分に予想できる。ただし当時の舞台を見た人の文章に残されたものは、半裸の女性のリンチシーンに限られているので、これはあくまでも想像にすぎない。ただ、鬼の面を頭に引っ掛けた伊吹新太郎の登場の仕方が、まるで電源のスイッチを入れたように唐突に浮かび上がり、電源が切れたようにプツンと消える。二重写しの際によく使われるゆっくりとしたフェイドイン、フェイドアウトではないのだ。舞台では幻燈を用いて伊吹を登場させ、ショック効果と共にマヤの心象を表現したものを、スムーズでない稚拙めかした二重写しで映像化したのではないか、と勘ぐってみたのである。

空気座による舞台「肉体の門」の写真は、今の所ここに挙げた一枚しか確認できていないが、モノクロに色味を想像して着色した写真と並べてみた。人物のキャラクターによって、かなり計算された衣裳設計になっていることは、さすが戦前に欧州で本物のレヴュウや演劇を見聞した秦豊吉ならでは、と思う。まず中心にいる縄を引っ張る女性だけが横縞のストライプの入った柄物の上着と、格子縞のスカートを着用し、残りの三人は無地であることから、この女性がリーダー格の小政のせんとみて間違いあるまい。暖色系の色はモノクロだと黒くなるからストライプの色は赤だと判断し、さらに赤のストライプといえばアメリカ国旗をシンボライズする、と考えてスカートは青地にしてみた。左端のリンチを受けている女性はマヤではなく、人妻の町子だと思うのは、彼女だけが足の露出が少ない長めのスカートを着用しているからだ。清順版「肉体の門」の町子は、彼女だけ着物をきているが、時間勝負のパンパン稼業において、着脱に時間のかかる和装というのはやはり映画的なウソであろう。貞淑というイメージが、映画では和装、舞台では長めのスカートによって表現された。色も地味目の茶系のスカートに白っぽい上着と思われる。ハシゴの上でリンチを見つめているのはマヤ、右端のロープを支えているのはお六か、お美乃でいづれにせよ二人共に無地で寒色系の、パンパンらしい派手で色違いの洋服を着ているのであろう。パンパンが進駐軍から手に入れた米軍内の購買部(PX)から入手したと思われる、日本にはない原色の派手なレインコートを着ていた、と田村泰次郎の「わが文壇青春期」にもあった。

してみるといかにも清順らしいといわれる原色による洋服のヴァリエーションも、ある程度は舞台「肉体の門」の再現ではないのか、と疑われてくる。照明に関しても、見ず知らずのお客相手として伊吹新太郎と寝る時の、小政のせんに当たるスポットライトが有名だが、舞台の「臆面もないあからさまな再現」が清順的なのであって、映画においてスポットライト照明を用いることが清順的なのではない、といえるかもしれない。

美術セットにおいても細部にいたるディテールの造り込みが感じられるパンパンたちの隠れ家に対して、いかにも舞台の書割的な背景場面があり、その落差が映画「肉体の門」の不思議な魅力にもなっている。特に原作小説には登場しない牧師が、マヤの誘惑に負けてしまい、教会の前でのセックスを暗示する場面においては、背景の教会が意図的に書割そのものだ。その前でマヤの顔に舞台のライトアップのような下方からの照明が当り、「町子は悪魔だ。新ちゃんの身体を虜にする悪魔だ。あたしもその悪魔になるんだ!」とマヤの声でナレーションが入る。マヤが後でリンチを受けるのを承知の上で伊吹と寝る前の、心の動きを分かりやすく見せてくれる場面である。小説ではマヤの内面を言葉で説明する心理描写を、アクションで見せることは舞台や映画においては大切だが、そのためにこそ秦豊吉は、舞台で牧師を狂言回しとして登場させたのだろう。マヤが牧師とセックスすることは、リンチシーンの前フリとして重要であると共に、悪魔はキリスト教において堕天使であり、牧師の行為が悪魔であるマヤと一体化して、マヤと同じサタンになるという、日本の舞台の西洋化を考えていた秦豊吉好みのテーマも浮かび上がる。

舞台の「肉体の門」においては前掲した写真でも解るように、リンチが行なわれる隠れ家が舞台のメインセットであり、その他のシーンは書割を背景に演じられたであろうことは、容易に想像がつく。したがって舞台では書割の教会の前で演じられた場面をそのまま映画でも再現した、ということになりはしないか。

クライマックスのマヤのリンチシーンについては秦豊吉自身が書いた、空気座による舞台の模様を描写した文章を引用してみる。

女は見物に背を向けているが、真白な背中の肉が、何も隠さぬ胸へかけて、盛り上がって白く輝く。ぶたれて気を失った女が、吊るした縄をゆるめられて、くるりと躰をくねらして、床の上に倒れる。背から胸にかけて、照明を受けて、雪のように白かった。「肉体の新宿」という感がした。これで私は日本の芝居を、少し西洋らしくしたと思った。

この文章で解ることは、マヤの身体が雪のように白く輝くほどに、強烈な照明を当てられていたことである。その照明効果をさらに際だたせるためには、舞台全体を暗くする必要がある。その時に例えばブルーのカラーフィルタを装着した弱い光の照明を使い、舞台を丸ごと蒼い異空間に変えることは舞台照明としてはよくある手法だ。映画「肉体の門」においては全裸で吊るされたマヤを中心として、その周りがマヤのシンボルカラーであるグリーンに染められている。このシーンにおける論考で、1964年11月号の雑誌「映画評論」の読者論壇に掲載された数毀涼介(後に石上三登志によって大林宣彦であることが明かされた)による文章を引用してみる。

例えばリンチ場面。これ程凄まじいにも拘わらずこれ程リリシズム溢れた画面がかつて日本の映画にあっただろうか?カメラワークで変に逃げず真正面から女の全裸像(効果として)を捉えたのは作者の卓見であった。テレて布切れを纏わせたりする所から堕落は始まるのだが、作者自身がまるでサディストででもあるかのように極めて趣味的に悠々と楽しんでいる。だからこそぼくらは絵本の一頁を眺めるような、或るいはカレイドスコウプを覗きみるような、恍惚感に浸れるのだ。リンチの終わった後の空漠とした時間、全裸の女は天井からぶら下がり、他の女達は手拍子を打ちながら気怠そうに舞っている。両面の端は緑色に滲み、ロウソクのチロチロとした炎が足の裏を嘗める。ぼくの耳元を心地良くくすぐるのはメサイアの…ところが実際に聞こえてきたのは女達の唄う低俗極まる流行歌であった。

この論考のタイトルは「鈴木清順よ、音楽にもっと愛情を…」といい、大林宣彦が26歳の時の文章である。引用した文の最後に出てくる低俗極まる流行歌というのが、冒頭でふれた「星の流れに」で、若い大林宣彦にとってはこの曲が我慢ならなかったらしい。この論考は60年代の中頃から始まる鈴木清順評価の機運が、主に当時の若い世代によってなされたことが分かることでも意義があり、彼らは無論、空気座による舞台は見ておらず、低俗な流行歌「星の流れに」の出自も知らなかった。60年代以降、鈴木清順を論ずるときに今だに有効性を持つ枠組み、いわゆる「清順美学」といわれるものが、映画「肉体の門」にあっても単純にあてはめてもいいものなのか、はなはだ疑問である。清順美学といわれてきた「肉体の門」における数々の仕掛けを、舞台「肉体の門」の再現であると仮定して、その舞台再現がこの映画が公開された昭和39年(1964)という年にいかに機能したのか?それにはこの年を検証することから始めなくてはならない。(以下続く)