炎加世子からみた松竹ヌーベルバーグ(1)


大島渚が書いた「我が青春残酷物語」というエッセイがある。大島の第二作「青春残酷物語」が好評に迎えられ、第四作「日本の夜と霧」に取り組む前に発表された、「我が青春残酷物語」というタイトルに相応しい自身の大学時代からの苦闘と苦悩の日々をつづったものである。アジテーションのようなメッセージ性が強い初期の生硬な大島の文章の中でも「我が青春残酷物語」が異色なのは、語りかけるような平易な文体で書かれているからで、それは初出誌が映画専門誌ではなく「婦人公論」ということがあるからだろう。このエッセイは同誌の昭和35年(1960)10月号に掲載され、6年後に出版された「魔と残酷の発想」に収められた際に大幅に加筆修正された。現在ではそれを底本として「大島渚著作集 第一巻」にも収録されている。初出誌では次のような書き出しで始まっているが、この部分は削除されているので初出誌でなければ読むことはできない。「自分のことを語るにはまだ若すぎると思います。殊に芸術家としての自分を語るには。だから今は、この春私及び一般に日本のヌーベルバーグと呼ばれている、松竹大船の若い映画監督たちを特集してくれた『週刊読売』の編集者が言ったように、企業の中で、ということは現代日本の状況の中で、明確な方針と方法を持って自分たちの道を切りひらいた若者たちの物語、として語りたいと思います。」この文中にある編集者は後の直木賞作家である長部日出雄と大沼正のことで、週刊読売の昭和30年(1960)6月5日号に掲載された「日本映画の“新しい波”〜怒れる監督たちはヒットするか?」と題する記事を指している。二人はこの中で初めて松竹大船の若い映画監督たちを総称して大船ヌーベルバーグと呼び、この呼称の命名者とされている。(命名者の特定に関してはシナリオ集「日本の夜と霧」にある大島自身の後書きによる。)

引用した大島の文中で注目すべき箇所は二点あって、ひとつは自己を語る上で自身を映画監督ではなく芸術家と規定していること、もうひとつは「日本のヌーベルバーグと呼ばれている、松竹大船の若い映画監督たちを特集してくれた『週刊読売』の編集者」とあるように、大船(松竹)ヌーベルバーグの命名者に対して自分たちを取り上げてくれたことに感謝の意を表していることである。そこにはヌーベルバーグという言葉への特別なこだわりは感じられない。ところがこのエッセイの直後に書かれた二つの文章はヌーベルバーグへの呪詛にも似た反発で埋め尽くされている。それは昭和38年(1963)に出版された大島の第一評論集「戦後映画・解体と噴出」に収録されている「“ヌーベルバーグ”撲滅論」(初出は実験室ジューヌ「パンフ」昭和35年10月)、雑誌「時」昭和35年11月号に掲載された「“ヌーベルバーグ”なんてない」(こちらは単行本未収録)で二つともタイトルからして穏やかではない。二つの文章は論旨が重複している部分がかなりあって、ほとんど同じ趣旨とみなしても差し支えないと思われるが、「“ヌーベルバーグ”撲滅論」に掲げられた勇ましい冒頭部分が内容を要約していると思われるので引用してみる。「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ!“ヌーベルバーグ”とは何か?“ヌーベルバーグ”という名称以外に何ら実体を持たないもの。それを何の疑いもなく信じこんだもの。そうしたものたちを撲滅せよ!」

「我が青春残酷物語」を単行本に収録する際に、週刊読売に関連したヌーベルバーグに言及する部分を削除したのは、先に出版された「戦後映画・解体と噴出」に収められている「“ヌーベルバーグ”撲滅論」との整合性を計ったこともあるだろうが、実は「我が青春残酷物語」執筆時点では日本のヌーベルバーグと呼ばれたことに、大島自身、芸術家としての自尊心を大いに満足させられたであろうことは、「“ヌーベルバーグ”撲滅論」の後に書かれた「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」(同じく「戦後映画・解体と噴出」に収録)と合わせ読むと理解することができる。時間の経過が大島の筆致を冷静にさせて、その経緯を客観的に見つめ直しているからだ。そうであるならば先に書かれた「“ヌーベルバーグ”撲滅論」を同じ評論集に再録しなければよいと思われるが、当時の熱気を伝えるためにあえて併録したのかもしれない。「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」によれば、大島の「青春残酷物語」「太陽の墓場」、吉田喜重「ろくでなし」公開された後、田村孟「悪人志願」が公開されるまでの間に、主体的な作家意識、方法論を持たない単なるヌーベルバーグの衣裳をまとっただけの「ヌーベルバーグのにせもの」が現れて、大島、吉田らの偽物ではないヌーベルバーグを巻き込み、一部のジャーナリズムの手によって、ヌーベルバーグという言葉を単なるセックスと暴力を風俗的に扱う映画の代名詞にしてしまった、とある。初出誌にある「我が青春残酷物語」は「ヌーベルバーグのにせもの」が現れる以前に書かれているので、大島のヌーベルバーグという言葉に対する過剰なまでの拒否反応はみられない。

では大島の云う「ヌーベルバーグのにせもの」とはどの作品を指すのか?「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」には具体的に作品名が出ているわけではないが、松竹公開作品を時系列順に辿ることで簡単に特定できる。「太陽の墓場」封切が1960年8月9日、「悪人志願」が同年9月20日、その間に公開された新人監督の作品で今も松竹ヌーベルバーグ作品とされているものは篠田正浩監督第二作「乾いた湖」をおいて他にない。もともと週刊読売の記事で大島渚を含む松竹の若い助監督のグループを最初に大船ヌーベルバーグと呼んだのは、七人の会というシナリオも書ける才能を持った助監督同人の集まりをフランスで起こったエコール(流派)になぞらえたことに始まる。後の大島や吉田の弁によれば、七人の会は特定のエコールは持たない、シナリオを提出して早く監督に昇進するための単なる利害関係の一致によって集った同人に過ぎなかったらしい。この中には大島、吉田の他に田村孟、高橋治らがいた。篠田正浩は1960年3月に「恋の片道切符」の脚本も書き監督デビューしているが、不入りでまた助監督に戻されている。高橋治とは同期入社、大島渚の一年先輩に当たるが、七人の会とは接点がなく週刊読売の記事にも名前が登場しない。しかし「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」の文中にあるように、「“ヌーベルバーグ”を言い出したのは松竹ではないにしても、松竹がこの“ヌーベルバーグ”ブームに乗ろうとしたことも事実である。それはやみくもな新人監督の登用となって現れた」という松竹の方針によって早くも再びメガフォンをとるチャンスを得る。

朝日新聞に掲載された篠田正浩の「乾いた湖」を評した同時代の映画評のタイトルは、「類型的な筋立て」となっていて、類型的とはヌーベルバーグ的な類型に他ならないが、この表現は大島の云う「にせもの達は“ヌーベルバーグ”の衣裳、セックスと暴力を風俗的に取り扱っただけ」と見事に呼応している。ところが雑誌「映画評論」の佐藤重臣による作品評はこのような出だしで始まる。「このような政治の捉え方に対して、正統派ヌーベルバーグを始め、ジャーナリズムの気骨派も大変に憤慨しているようだが、ぼくは、なぜそんなにイカルのか、その理由が見当たらなかった」。正統派ヌーベルバーグとは無論、大島のことを指しているのだが、佐藤重臣による「乾いた湖」評のポイントとなる部分を抜書きすると以下のようなことである。「だが、このイミテーション(大島の云うヌーベルバーグの衣裳をまとったニセモノのこと、筆者注)も脚色に一枚、寺山修司が加わっていることを思いおこすと一概に断罪を真っ向からくだすには、チュウチョせざるを得ないのである。むしろ、ヌーベルバーグの捏造品をワザと意識して作ることによって、芸術の高邁さ・孤高さを階段から引きずりおろそう、という意図の下に作ったのではないか」。

脚本家としての寺山修司は「乾いた湖」が第一作目で、劇団「天井桟敷」を結成するのはまだ先のことであるにもかかわらず、歌人として注目されだしたばかりの寺山に対する佐藤重臣の評価は予感的で鋭いという他はない。迷宮的でパロディめかした「天井桟敷」の作劇術に通じるようなものを「乾いた湖」の中に見出しているからだ。「乾いた湖」は大島の云うヌーベルバーグの最低の基本線、「作家としての主体性を持つこと=脚本も監督自身が書くこと」を満たしていない上に、佐藤の云う「ヌーベルバーグの捏造品をワザと意識して作ることによって、芸術の高邁さ・孤高さを階段から引きずりおろそう、という意図」を大島がどう感じ取ったのかはわからないが、「日本の夜と霧」のように政治と真正面から向かい合う芸術家だった当時の大島にとって、寺山修司は篠田同様に撲滅すべき敵としてうつったに違いない。しかし後年に書かれた寺山修司への追悼文「最後の日々=寺山修司」(大島渚著作集第四巻収録)を読むと、「寺山は“成熟”という悪しき病を免れた同時代の唯一人の者だった」とある。“成熟”という悪しき病、とは、物事すべてにわたって相対的に捉えることのできる健全な精神、の反語として、若き日の大島自身の政治に対する悪しき病にも似た、直情的で早すぎた成熟に対する苦い述懐とも読める。

大島が「ヌーベルバーグのにせもの」と著書の中で罵詈雑言を浴びせた「乾いた湖」の監督である篠田との関係も、「戦後映画・解体と噴出」が出版された二年後に、松竹との間で始めていた映画「悦楽」の難航していた交渉が、まだ松竹に在籍していた篠田の好意によってその糸口が開けた(シナリオ集「日本の夜と霧」後書きより)とあるから、その頃には良好になっていたことが分かる。もっとも大島に限らず青年期に60年安保闘争を経験した世代は、昨日の友は今日の敵、のごとく憎悪と共感が激しく入り混じる、まるで学生運動の派閥闘争を想わせるような目まぐるしい人間関係が共通してあるので特に驚くには値しない。それはともかくヌーベルバーグという言葉がジャーナリズムによって変容を遂げていく過程をまたぐように公開された三本の、それぞれ異なる監督による映画「太陽の墓場」「乾いた湖」「悪人志願」をつなぐヌーベルバーグの徒花、それが炎加世子である。(以下続く)

右から「青春残酷物語」封切時と公開二週目の新聞広告。「愛と希望の街」はタイトルが松竹の意向で二転三転したことは先に記したが、「残酷物語」という言葉がタイトルとして受け入れられたのは、当時、ベストセラーだった「日本残酷物語」(右から三番目の新聞広告)が先にあったからだと思われる。というのも「青春残酷物語」のタイトルロゴが「日本残酷物語」のロゴに酷似しているからだ。また「青春残酷物語」の惹句にある「ビート族を描破!」も、「青春残酷物語」の前年、昭和34年(1959)11月23日に封切られた「非情の青春」(いちばん左)の惹句、「これがビート族の生態だ!!」によく似ている。ビート族とは太陽族に代わる「不良の呼称」として定着しつつあったが、下段にある同じ「非情の青春」にある「アメリ太陽族の生態を暴く」という惹句をみると、あたらしい言葉への移行期だったようだ。事実、「青春残酷物語」の新聞評を読むと太陽族映画との比較で論じているものがいくつかある。