炎加世子からみた松竹ヌーベルバーグ(2)


高見順のエッセイ集、「異性読本」に“ズベ公とはどんな女だったか”という一節があり、こんな書き出しで始まっている。「浅草のフランス座が改築して東洋劇場という名になって、その開場記念番組というのが新聞に出ていた。その出しもののひとつに“ずべ公天使”という題名がある。このズベ公というのが私の眼をとらえた。」“ずべ公天使”は新東宝を追われたばかりの前田通子の座長公演で、炎加世子はその舞台でデビューした。昭和35年(1960)2月23日付けの朝日新聞に「浅草このごろ〜炎加世子に人気」という記事があり、おそらくこれが炎加世子にとってマスコミ初登場だろう。記事によると「“ずべ公天使”からは、規格はずれのスター、いかにも浅草好みの炎加世子という人気者まで飛び出した。彼女はまだ十八歳、あの芝居にでるまでは特別な舞台経験もないが、ズベ公を地で行くようなイキの良さ、個性の強さが受けて、客席からしきりに声が飛ぶ。おかげで、いま撮影中の同じ題名の映画にも出演することになった」。ズベ公とは不良少女のことで、高見順によれば戦前からあった言葉だそうだが、東京だけではなく全国的に知られるようになったのは終戦後らしい。「ズベ公を地で行くようなイキの良さ」と紹介された炎加世子は、東映の「ずべ公天使」に出演後、同じ東洋劇場で働く照明係の少年と心中事件を起こす。こうしたことを今更書くのは本意ではないのだが、この事件が松竹によって映画宣伝に積極的に利用されるので外すわけにはいかなかった。

炎加世子が週刊誌に初登場するのは、ほんのチョイ役だった「ずべ公天使」に続く、初の本格的主演となる「太陽の墓場」が公開される一ヶ月前に「週刊平凡」に掲載された「自殺未遂をした踊り子が拾った幸運」と題する記事である。この記事によると炎加世子は心中の理由についてラジオ番組でこう語ったとある。昭和35年(1960)といえばその前年に皇太子御成婚によるテレビの爆発的な普及率増加があったとはいえ、まだまだラジオが主流だった時代である。「とにかく何をやってもつまらない…別に動機がお金とか、彼との結婚問題なんかではなかったんですが、なんとなく生きているのが無意味で、いちばんいいときに、彼といっしょに死んだらいいだろうと思ったのが、自殺のきっかけだったんです。」大島渚がなぜ素人同然の彼女を主役にしようと思ったのかについては、同記事による大島の発言として、「既成スターにはない、生々しい実感をいっぱいもっている」とあって、これは後の映画、「無理心中 日本の夏」の桜井啓子、「白昼の通り魔」の川口小枝などにみられるように、大島の俳優起用法は一貫している。前作「青春残酷物語」で日本のヌーベルバーグと騒がれだした新進気鋭の監督と、「とにかく何をやってもつまらない…」といういかにもヌーベルバーグ的な、満たされない日常の閉塞感によって心中未遂を起こした炎加世子との結びつきは、「運命」(当時の炎加世子の発言)的であった。

次に炎加世子が週刊誌に取り上げられるのは、やはり「週刊平凡」8月17日号の「セックスを平気で口に出していう女優」と題するもので、炎加世子の有名な「セックスするときが最高ね」という発言の元となった記事である。週刊誌の発売日は曜日が決まっていることで、読者もその曜日が来れば雑誌の発売を思い出し、ほとんど惰性で買ってしまう、というのが通例である。「週刊平凡」の発売日は水曜日で、8月17日号ならば通常その一週間前の水曜日である8月10日に発売されるべきものが、この号に限って一日早い8月9日の火曜日に発売されている。8月9日は「太陽の墓場」公開初日であり、この事ひとつをとってみても、この記事が映画公開と合わせたタイアップ記事である、という事を伺わせるには十分な根拠となる、と思われる。さらに「太陽の墓場」公開中に「週刊平凡」より4日遅れで発売された「週刊女性」には、やはり炎加世子を特集した「61年型の魔女 炎加世子」という記事があり、この号の広告見出しには「セックスするときが最高ね」と似た「キッスやセックスしてるときが幸福ね」とある。中4日という期間を考えれば、この見出しが「週刊平凡」での発言を受けての記事であろうはずがなく、この「セックスするときが最高ね」という、ヌーベルバーグ女優に相応しい奔放な発言は、炎加世子を売り出すためにむしろ松竹側からマスコミに働きかけて広めた、ということがいえるだろう。というのもそれから18年後の「週刊読売」に「ヌーベルバーグのスター 18年目の“第二の青春”」という炎加世子のインタビュー記事があり、この発言の真相が語られているのだ。以下、その部分を引用してみる。

「ええ、だから、仕事であろうと会話しているときだろうと、何かにつけて熱中しているときが最高だと、そういう意味でいったのが、「週刊明星」でしたかね(原文ママ、「週刊平凡」の誤り)、じゃセックスしているときはどうですか?っていうから、もちろん、夢中になってないバカはいないでしょ、って言ったら、そこだけ抜き出されちゃって、キャッチフレーズみたいにされちゃったのね。」

まるで誘導尋問のようなこのインタビューを記事にするときに、どこまで松竹側の意向が働いているのかは分からないが、この記事が「太陽の墓場」公開当日に合わせたタイアップ記事だということと、その四日後に出た「週刊女性」にはすでにキャッチフレーズのように使われていることを考えあわせれば、自ずと答えは見えるはずだ。なんとなく死にたくなったという、理由なき自殺未遂と、「セックスするときが最高ね」というキャッチフレーズで、すぐさま炎加世子はヌーベルバーグ女優というレッテルを貼られることとなった。もうひとつ松竹が炎加世子を売り出すために採った戦略は、言葉によるキャッチフレーズだけではなく、マスコミに露出する写真に制限をつけたことである。それは笑顔の写真を使うな、ということで、これは根拠となる記述が残されているのではないのだが、炎加世子登場時からの新聞、雑誌記事に掲載された写真を調べて検証したことから導き出した結論である。炎加世子は当時まだ19歳であり、撮影合間であれば笑顔のオフショットがあってもおかしくない年齢である。しかし彼女の笑顔写真が初めて公にされるのは、「日本の夜と霧」公開打切りのあと、松竹がヌーベルバーグを商売にするのは止めた後になって出演した、初の時代劇「旗本愚連隊」の紹介記事の中でのことであった。

笑わない炎加世子の顔は、鋭い眼光と物憂げな表情、グラマラスで伸びやかな四肢とともに、ヌーベルバーグイメージのアイコンとなった。谷崎潤一郎の小説「瘋癲老人日記」に、炎加世子が谷崎独特の表現である「残虐性の現れている女」として紹介されているが、それは炎加世子の一般的イメージが、笑顔がないことによって形作られたものであることに他ならない。その部分は以下のとおりである。(原文は漢字以外はすべてカタカナ表記だが、読みやすさを考えて平仮名に直してある)

時に依ると顔に一種の残虐性が現れている女があるが、そんなのは何より好きだ。そんな顔の女を見ると、顔だけでなく、性質も残虐であるかのように思い、またそうであることを希望する。昔の沢村源之助の舞台顔にはその感じがあった。フランス映画の『悪魔のような女』の中の女教師になったシモーン・シニョレの顔、近頃評判の炎加世子の顔等もそうだ。これらの婦人たちは実際には善良な夫人なのかもしれないが、もし本当に悪人であり、それと同棲ーーーは出来ないまでも、せめて身近に住み、接近することが出来たらどんなに幸福であろうと思う。

谷崎の小説で映画女優の実名が登場するのは他に「過酸化マンガン水の夢」に登場する、日劇ミュージックホール時代の春川ますみぐらいしか思い浮かばないが、炎加世子春川ますみは谷崎の小説にその名が出たことで、後世に至るまで日本映画史と文学史双方にその名を留める栄光に浴したことになる。(以下続く)

松竹が映画広告の惹句にヌーベルバーグと入れたのは「太陽の墓場」と「ろくでなし」の二作品だけである。カラーのポスターには入っていないし、モノクロの新聞広告にはタイトルロゴの「太陽」の下にヌーベルバーグの決定問題作、とあるがそれも小さな文字でほとんど目立たない。下の横たわる女性は炎加世子ではなく、大ヒットした「バナナボート」の歌手、浜村美智子である。炎加世子の半裸姿のイメージの源流がここにあるのではないか、とおもい取り上げてみた。浜村は「太陽の墓場」が封切られる三年前の昭和32年(1957)に、18歳で美術雑誌「アトリエ」のために撮られたヌードモデル写真が「娯楽よみうり」という週刊誌に転載されたのが芸能界デビューのきっかけである。炎加世子とデビュー年齢も同じ、雌猫を思わせる顔もよく似ているし、高校生でありながらヌードモデルになるという奔放さも共通している。浜村がデビューした同じ年に、松竹では泉京子というグラマースターがいて、海女に扮した映画「禁男の砂」が公開された時、浅草松竹に幅3m、高さ10mという巨大看板が登場し、人々の度肝を抜いているが(写真左)、海女といっても着衣で乳首が透けて見える、というのが限界だった。それから三年後とはいえ、「太陽の墓場」のポスターの衝撃度を、当時の人々の気持ちになって想像することも無駄ではあるまい。