ロカビリーブームの造り方(3)


小坂一也は第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる前年の昭和32年(1957)に「星空の街」で映画初主演をはたしている。黒澤明蜘蛛巣城」の添え物映画とはいえ主演作であることには変わりない。演じる役名も小坂一也をもじった小村一也となっており、高校時代はラグビーに打ち込むなど本人を投影したストーリーとなっていて、小坂ファンのためのアイドル映画といっていい。この映画は当初、新映プロという独立プロダクションが企画し製作するはずだった「栄光の星」が元になっていて東宝は配給するのみだったが、タイトルも脚本も変更され「星空の街」という東宝映画として製作公開された。その経緯は不明だが「星空の街」の製作者に名を連ねる小坂隆文は、小坂一也の実父であり新映プロの主宰者でもある。これは小坂一也のことを誰よりも知っていた井原高忠も彼の生い立ちとして書いているし、当時の週刊誌にも記されている。しかし映画史的にも重要なこの事実は何故か間違って伝えられ現在に至っている。俳優の事典としては現行では最大で最新のキネ旬「日本映画人名事典・男優篇」の小坂一也の項では、相変わらず「会社員の父」となっており、ワゴンマスターズについてもまるで小坂が結成したかのような記述になっているのはどうしたものか。

井原によれば小坂の父、小坂隆文は小坂一也の実母と早くに離婚しさらには二度目の母とも別れている。いわゆる火宅の人だったようで、小坂の著書「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」でも幼年時代の父の思い出しか語られていない。そんな父親が小坂が有名になった途端に彼のもとへ舞い戻り、映画の主役にして一儲けを企んだとすれば、小坂も内心忸怩たるものがあったに違いない。事実、小坂隆文が関わった小坂一也の映画は「星空の街」一本のみで終わっている。小坂の父親のことに触れたのは他でもない、第一回日劇エスタン・カーニバルの出演者の多くが、当初は有名人の親を持つ二世タレントのお祭り(カーニバル)として紹介されていたからだ。毎日新聞に掲載されたウエスタン・カーニバル前日の告知記事のタイトルは「有名人の二世や兄弟ズラリ」となっていて、もしこの人選が渡辺美佐の云うようにジャズ喫茶での「発見」であったりしたら、その慧眼たるや恐るべしと言わざるを得ない。二世の中でも特に山下敬二郎と関口悦郎は別格であろう。山下の父は柳家金語楼、関口の母は清川虹子という映画共演も多い芸能界の重鎮であり、戦前のPCLから戦後の東宝へと続く映画界にも太いパイプがある。彼らを採用することは取りも直さず彼らの親の背後に広がる芸能界や映画界の人脈も視野に入れてのことだろう。目ぼしいロカビリーの歌手たちのほとんどが、後に東宝と専属契約を結ぶのも、このことと無縁だとは思われない。小坂一也の場合は金脈を求めて離れていた父親が近づいてきたが、ナベプロの場合はその逆コースを辿る算段だったようだ。よってたまたま第一回日劇エスタン・カーニバルの後に山下敬二郎人気に火が付いたことは、ナベプロにとってはうれしい大誤算だったに違いない。

第一回日劇エスタン・カーニバルが目論見以上の大成功に終わった同年4月、つまり翌5月に開かれた第ニ回目の日劇開催前に、東京ビデオ・ホールで恒例となった第九回目のビデオ・ウェスタン・カーニバルが行なわれた。井原高忠によって書かれたこのレポート記事があるのでその一部分を引用してみよう。「このウェスタン・カーニバルは、定期的に、しかも長期にわたって我国C&W界の発展と前進に寄与して来た伝統と権威ある行事であり、今や西部音楽愛好家にとっては無くてはならぬ催しである。特に、今回はロッカビリーを避けて、なるべく正統のウエスタン、ヒルビリーを主体として演じられるという事であったが、結果は全盛のロッカビリー歌手たちが、かれらの商標をかざして大いにロックン・ロールし、客席もかの『ハイティーンの狂態』を再現した」。つまり日劇エスタン・カーニバルはロッカビリーをかざして大成功し、小坂一也の後進たちのバックアップにもなったのだから、東京ビデオ・ホールで開かれるウエスタン・カーニバルはロカビリー無しの、「正統のウエスタン、ヒルビリーを主体として演じられる」約束が事前に交わされていた。それにもかかわらず日劇と変わらないロカビリー大会になってしまったことを苦々しく記しているのだが、これはロカビリー歌手たちが勝手に演じたことではなく、その背後にいるプロモーター、すなわちナベプロが事前の約束を反故にして伝統あるC&W界の行事を乱痴気騒ぎにしてしまったことを暗に示唆している。純粋なウエスタンミュージック愛好家である井原高忠とって、後進の後押しをするためにロカビリーに手を貸すことは厭わなかったのだが、ナベプロはウエスタンミュージック界のために動いていたのではなく、実は単なる金儲けの手段としてロカビリーブームを煽っているのではないか、との最初のわだかまりを抱いたはずだ。

井原のナベプロに対するわだかまりがこの時点でまだ反発までには至っていないことは、翌年の昭和34年(1959)1月に、自身がディレクターを務めた日本テレビ光子の窓」において、その後ナベプロのドル箱スターとなる双子の姉妹歌手の名付け親となり、テレビデビューに一役買っていることからも窺える。ザ・ピーナッツ命名された二人はクレイジー・キャッツと共に、テレビ時代の幕開けと期を合わせてナベプロ大躍進の礎を築いた。井原はこの頃からめっきりミュージックライフへの寄稿も減り、小坂一也の歌手としての人気もロカビリー歌手に押されて急落していく。翌1960年に入るとペリー・コモ・ショーに関する記事を最後に、井原のミュージックライフへの寄稿は途絶える。ミュージックライフ創刊号からの編集長だった草野昌一は、1960年から漣健児のペンネームを用い、洋楽カバー曲作詞家としてナベプロ歌手たちのヒット曲を次々と量産していく。井原はおそらくこの時期に、音楽を心から愛する健全なアマチュアリズムとはかけ離れた、、音楽とは金儲けの手段にすぎないナベプロのプロフェッショナルで徹底した拝金主義とのぬぐい難い亀裂があったのだろうと思われる。

小坂一也の歌うプレスリーから漂ってくる匂いは、ロックン・ロールというよりもヒルビリー(泥臭いカントリーミュージック)のもつ素朴さに近い感触がある。彼の著書からも特にプレスリーへの偏愛は感じられないし、ウエスタンミュージックの流れの中から生まれたプレスリーを単にカバーしたに過ぎないような淡々とした書きっぷりである。第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれた時期に、もしロカビリーという言葉がロックン・ロールと同等に一般的な言葉であったならば、小坂一也こそロカビリー歌手に相応しく、反対にロカビリー三人男と呼ばれた彼らこそパフォーマンスを含めて本来ロックン・ロールと呼ばれるべきだった。昭和52年(1977)に三人が久しぶりに結集して出されたEP「上陸!ロックンロール・タイフーン」にはジャケット、帯ともにロカビリーの文字はなくロックンロール三人男となっているのは、彼らのロックンロールへの思いが今更ながら伝わってくる。自分たちのブレイクのきっかけとなったロカビリーという言葉よりも、自分たちは本来ロックンロール歌手だというメーセージのはずだったが、マスコミ記事が伝えたのは「ロカビリー三人男が復活!」であった。