ロカビリーブームの造り方(2)

毎日新聞社の告知広告にはロカビリイとあり、朝日新聞社の告知には何故ウエスタンシンガーとなっているのか?それはロカビリーという言葉がまだほんの一握りの人たち以外には全く知られていなかった言葉だったからで、ロカビリーは第一回日劇エスタン・カーニバルのために用意され、「ブーム」と共に一気に知られるようになった新語だからである。「そんなはずはない、順番が逆でロカビリーブームがまずあってその頂点に第一回日劇エスタン・カーニバルがあったのではないのか」と思われるかもしれない。確かに例えば平尾昌章やミッキー・カーチスは第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる以前から人気が急上昇していたのは、前回に載せた人気ランキングをみても明らかだ。しかし彼らは日劇エスタン・カーニバル以前にはロックン・ロールと呼ばれ、ロカビリーと呼ばれたわけではない。では何のためにロックン・ロールをロカビリーという新語に言い換えなければならなかったのか?それを語るためには順番としてロカビリーという言葉が第一回日劇エスタン・カーニバル以前には知られていなかった新語だ、ということを明らかにする必要がある。毎日新聞朝日新聞の告知広告の違いはそれを証明するためのきっかけとして取り上げてみた。

毎日新聞では計4回にわたりウエスタン・カーニバルに関連する記事が掲載された。パブリシティと記事とが一体となったいわゆるパブ記事と呼ばれるタイプのもので、なぜそれが毎日新聞でおこなわれたのかは解らない。ただ事実をを列挙していくと、まず最初に朝比奈愛子から始まり、平尾昌章、ミッキー・カーチスの順番で夕刊のコラム「春を呼ぶ」に取り上げられた。このコラムは毎日、芸能人が一人づつ登場しインタビューを絡めて近況や抱負を語る、というもの。朝比奈が1月25日、平尾が2月3日、ミッキーが2月5日と明らかに第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる2月8日に向けて読者の関心をリードしている。このうち平尾昌章とミッキー・カーチスの記事を比較すると一つの面白い事実が浮かび上がる。2月3日付けの平尾昌章の記事のほうがミッキー・カーチスの記事より2日はやい、とうことが比較する上でのポイントとなる。平尾昌章の記事は小見出しに「生かしてゆくロックン・ロール」とあるように、インタビューの中でロカビリーとは一言も口に出してはいない。例えばこんな具合である、「ウエスタンの歌手だが、今では "和製プレスリー" としてハイ・ティーン族の人気の的」、「初めてビル・ヘイリーのロックン・ロールをきいた時 "こいつはイカすぞ" と思った」、「自分がいったん選んだロックン・ロールの精神だけは生かしていきたい」。ところが二日後に掲載されたミッキー・カーチスの記事になるとこのように変化する。この部分は記者が書いた地の部分でミッキー・カーチスの語った言葉ではない。「(ミッキー・カーチスは)先に紹介した平尾昌章と同じくロカビリーの歌手だが、ちょうどそのブームにぶつかってたちまちビクターに迎えられた。八日から日劇の『ウエスタンカーニバル』、それが終われば…(以下略)」

第一回日劇エスタン・カーニバルに出演する歌手三人のうち、最後のミッキー・カーチスにいたって初めて日劇エスタン・カーニバルに言及され、それに合わせるように唐突にロカビリーという言葉が登場する。二日前にはウエスタンの歌手として紹介されていた平尾昌章は、ミッキー・カーチスの記事の中では突然ロカビリーの歌手ということになっている。さらに記事にはミッキー・カーチスの発言としてこのように書かれている。「ロカビリー・ブームは当分のことでしょう。将来は何でも歌える歌手になりたいし(以下略)」。ロックン・ロールをロカビリーと言い換えているのは、ウエスタン・カーニバルの主催者であるナベプロの意向が記事に反映しているのは明らかだが、二日前の平尾昌章には意向が伝わっておらず自由に語らせてしまった、ということだろう。これは芸能におけるプロモーション管理のあり方がまだ現代のように細かく行き届いていないことから起こる混乱が招いた結果だといえる。それはロカビリーの表記にも現れていて、毎日新聞の告知広告ではロカビリイ、読売ではロカ・ビリイ、雑誌ミュージックライフではロッカビリー、とバラバラである。表記が統一されていないのは何より新語であることの証拠でもあるのだが、毎日新聞において第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる前日の夕刊に載った告知記事にはこのような説明書きがある。「八日からの日劇ショーは流行の波にのりかけてきたロカビリー(ロックン・ロールとヒルビリーの合いの子)調に焦点を合わせたウエスタン・カーニバル」。説明書きが必要な言葉がその時点で一般的に流布しているはずがないのは言うまでもない。(合いの子とは混血のことで現在では差別用語としてマスコミで使われることはない)

大宅壮一文庫にある全ての雑誌記事をあらってみても、第一回日劇エスタン・カーニバルか開かれる以前には、ロックン・ロールブームに関する記事はあってもロカビリーブームの見出しのついた記事は一つも存在しない。つまりロカビリーという言葉はウエスタン・カーニバルのために用意されたものだ、ということが分かる。朝日新聞の告知広告にロカビリーの言葉がないのは、毎日新聞と違って開催前日まで何の関連記事もロカビリーに関する説明も無いからだ。ロカビリーなんて言葉は誰も知らないから「当代人気最高のウエスタンシンガーを揃えて贈る!」というキャッチとなる。

ただ一つだけ見出しにロカビリーが入った雑誌記事がある。それは第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる直前の昭和33年(1958)3月号のミュージックライフに掲載された「誰がロッカビリーのスターとなるか?」と題する記事であるが、但しこの記事は次の記述で文章を終えている、「二月には日劇で、平尾、ミッキー、キャラヴァン等の出演でロッカビリー・ショウが行なわれる。愈々、ウエスタン、ロッカビリーにも華やかなライトがあびせられる事になりそうだ。小坂一也を世に送った我がウエスタン界が、続いて生み出す新しいスターは誰か、まことに楽しみだ。」要するにこの記事も日劇エスタン・カーニバルに向けて書かれたパブ記事ということだが、注目すべきはこの記事の筆者が井原高忠だということだ。井原は慶応大学在学中からワゴンマスターズのベース奏者兼バンドマスターで、まだ無名だった小坂一也をボーカリストとして採用した。大学卒業と同時にあっさりとバンドを離れ、開局したばかりの日本テレビに就職する。テレビマンとなった後も小坂一也との交流は続き、1950年代には雑誌ミュージックライフにウエスタン関係のレコード評や記事を頻繁に寄稿していた。後にディレクターとなってからはゲバゲバ90分11PM等の番組に関わり、初期のTVディレクターとしては最も著名な人物の一人である。また芸能界の一大勢力となったナベプロとの反目は、スター発掘番組「スター誕生!」の裏話として有名だ。そんな井原がナベプロ躍進のきっかけとなった第一回日劇エスタン・カーニバルのパブ記事を、日本テレビ在職中に書いていたのである。先に引用した文中にもあるように、純粋にウエスタンミュージックを愛していた井原は(「我がウエスタン界」という表現からそれが伝わってくる)、日劇エスタン・カーニバルが盛り上がることによって「ウエスタン、ロッカビリーにも華やかなライトがあびせられる事」を心から願っていた。だからこの時点ではナベプロの主催した第一回日劇エスタン・カーニバルのためにパブ記事まで書いたのである。

ロカビリーという言葉を紹介したのも自分が調べた限りでは井原高忠が日本で最初である。前述した記事の二ヶ月前にあたる昭和33年(1958)1月号のミュージックライフに掲載された「1957年秋のウエスタン・カーニバルをきく」と題するもので、第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる前に東京ビデオ・ホールで開催された第八回目のウエスタン・カーニバルをレポートした文章で使われたのがロカビリーの初出だと思われる。ロカビリーという言葉はエルヴィス・プレスリーのハートブレイク・ホテル(1956)がヒットした時に、アメリカの音楽誌「ビルボード」でロックン・ロールとヒルビリーを合わせた造語として初めて使われたという説があるが、ソースが一つしか無いので何とも確証がない。井原はテレビマン特有の流行を目ざとく見つけ出す嗅覚で、いち早くこの言葉を知ったと想像されるが、第一回日劇エスタン・カーニバルを「ロカビリー・ショウ」という名目でいくということを、ナベプロの社長であるジャズマンの渡辺晋にサジェスチョンしたのではないかと思われるフシもある。何故なら「誰がロッカビリーのスターとなるか?」の中で次のような記述があるのだ。「こうした新進連の活躍は、まことに我がウエスタン界にとっては結構なことだが、今日こうしたブームのきっかけを作ったのはやはり小坂一也と云うことが出来よう。その彼は、ワゴンマスターズを離れて、今後、歌手ーウエスタン歌手として、又、歌謡曲歌手として独自の道を進み、映画俳優としての道にも進んでいくつもりだと云う。彼をウエスタン歌手としてのみ愛したファンは面白くないかもしれないが、もっと大きな立場から、彼の新しい前進に祝福あれと希望し、応援したい。」

つまりこの文章が書かれた時点で井原は第一回日劇エスタン・カーニバルにはトップスターである小坂一也の出演は無く、彼の云う「新進連」が中心となっていることを承知している。小坂は日本でいち早くハートブレイク・ホテルを始めとするプレスリーナンバーを日本語歌詞に乗せて歌い、「和製プレスリー」という異名も持っている。プレスリーといえばロックン・ロールの代名詞ともなっており、新進連が中心となっている日劇エスタン・カーニバルを「ロックン・ロール・ショウ」としてしまうと、どうしても日本においてロックン・ロールのトップスターだった小坂一也の不在が目立ってしまい、穴のあいた新人中心のショウにみえてしまう。そこで新語であるロカビリーをかつぎ出し、小坂一也とは違ったスタイルを提示すれば小坂の亜流とは一線を画すことが出来るうえに、小坂と同じ土俵で勝負する必要は最初から無くなる。現に小坂は歌謡曲への接近や俳優としても独自の道を歩みだしているし、平尾やミッキーらの後進を後押しするためには、小坂の歌うロックン・ロール調のイメージを払拭する必要があった。ロックン・ロールをロカビリーと言い換えるというコペルニクス的転回がもし井原高忠によって提案されたとしたら、その後ヒット番組を連発するTVディレクターらしい発想だと思えるのだが。

昭和30年(1955)のワゴンマスターズ。小坂一也は前列中央。この時点で井原高忠はすでにいないが、後にバントを去ることになる寺本圭一(前列右)と堀威夫ホリプロ創業者、後列左から二人目)は在籍している。大橋巨泉(ジャズ喫茶「テネシー」の司会者、またジャズ評論家でもあり1950年代には井原高忠と並んでミュージックライフ常連執筆者)による小坂一也評によれば、プレスリーのアンチャン風な野性味よりもジェームス・ディーンの持つナイーヴでいて虚無的な雰囲気に近いところに小坂の現代性をみているが、確かに若い小坂一也の風貌をみていると、後年のくたびれて煮え切らない中年役の多かった俳優とは思えない。この時期にワゴンマスターズのバンドボーイ(当時の言葉でボーヤ)をしていたのが、後に田辺エージェンシーの社長となる田辺昭知である。