ロカビリーブームの造り方(1)
第一回日劇ウエスタン・カーニバルは昭和33年(1958)2月8日に開催された。ロカビリーブームのピークを示す出来事として世相年表などには必ずのっている。なぜウエスタン・カーニバルの前に日劇が入るのかというと、ウエスタン・カーニバル自体は昭和28年(1953)から東京ビデオ・ホールにて年二回づつ開かれ、日劇で行われた前年秋には計八回目となるウエスタン・カーニバルが開催されている。日劇が会場になったのは初めてという意味で、正確には第一回日劇ウエスタン・カーニバルとなる。東京ビデオ・ホールでのウエスタン・カーニバルはその後も継続的に続けられて、日劇と区別するためにビディオ・ウエスタン・カーニバル(当時の表記)と呼ばれた。ウエスタンの名前どおり元々はカントリー&ウエスタンの祭典だったものが、ウエスタンミュージックの中からエルヴィス・プレスリーが登場することによって、日本のカントリー&ウエスタンも徐々に変容を遂げていく。その変容のエポックとして第一回日劇ウエスタン・カーニバルがロカビリーブームと共に歴史的には位置づけられている。
上にあるのはその前日の夕刊にのった告知広告で、左が毎日新聞、右が朝日新聞に掲載されたもの。イラストが違うだけで一見同じような広告を二つ取り上げたのには理由がある。間違い探しの好きな方ならば、ここで一旦読むのを止めてとくと比較して頂きたい。重要なポイントが異なっているのだ。正解は後にゆずるとしてまず出演者のリストから検証を始めてみよう。映画広告のトップに来るのが主役であるのはステージ・ショウにおいても同様で、第一回日劇ウエスタン・カーニバルでは寺本圭一がクレジットのトップになっている。ロカビリー三人男として知られるミッキー・カーチス、山下敬二郎、平尾昌章は名前が離れていて、最初から三人男として売り出されていた訳ではないことを示している。出演者としてクレジットされているのは他に岡田朝光(ウェスタン・キャラバンのボーカル)、関口悦郎(清川虹子の息子)、中島そのみ(後のお姐ちゃんトリオの一人)、朝比奈愛子(雪村いづみの妹)、水谷良重、羽鳥永一。羽鳥が罫線で隔てられていて別扱いなのは日劇所属のダンサーであるため。また水谷良重もナカグロ(黒い点)で他の出演者と別扱いになっているのは、東宝宝塚劇場の火災で出演していたミュージカルが出来なくなり、ウエスタン・カーニバルに急遽出ることになったためで、この出演者中もっとも一般的に知名度が高かったのは寺本圭一ではなく水谷良重である。水谷(女優・水谷八重子の娘)は当時、伊東深水(日本画家)の娘である朝丘雪路、東郷青児(洋画家)の娘、東郷たまみと三人で七光会を結成し歌手活動に力を入れていた。
広告に「同時上映・女殺し油地獄」とあるのは映画とウエスタン・カーニバルがセットだったということである。これはウエスタン・カーニバルだけに留まらず、日劇や浅草国際劇場で行われるショウは必ず映画とセットになっていた。日劇は東宝所有だから最新の東宝映画、浅草国際劇場は松竹映画がかかる。当時の表現で言うと「映画と実演」の抱き合わせ興行。日劇や浅草国際劇場などの大きな会場では実演がメインとなるが、地方都市でも盛んに実演は行われていて、そういう場合は映画館で行われるアトラクション程度のものだったらしい。当時の資料によればウエスタン・カーニバルは時間にして丁度1時間半、映画1本分の長さと同じである。料金表を見ると早朝開映時150円となっていて、朝一番の映画から見始めるのが一番安い料金設定となっている。邦画の新作二本立てが170円、洋画のロードショーが200円の時代だから、学生170円、一般200円というのは客層の大半を占めたであろうハイティーンでも十分に払える値段である。
トップクレジットの寺本圭一は一番人気だったウェスタンバンド、ワゴンマスターズに歌手として在籍し、その後同じくワゴンマスターズのギター奏者だった堀威夫(後のホリプロ創業者)とともにバンドを去り、新たなバンド、スイング・ウェストとして再スタートを切る。ワゴンマスターズのメインボーカリストだったのは、音楽雑誌「ミュージックライフ」人気投票でトップだった小坂一也で、彼の著書「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」によると、二人が小坂の元を去っていったのは彼がウェスタン音楽から離れて、古賀政男作曲による「青春サイクリング」という歌謡曲を歌い出した後だった、と述べているが恨みがましさは微塵もなく淡々と述懐しているだけだ。バンド人脈の離散集合が激しいのは何時の時代でも同じだが、50年以上前ともなるとやはりとても追い切れたものではない。それはともかく同じバンド仲間だった寺本圭一がトップクレジットの第一回日劇ウエスタン・カーニバルには、一番人気を誇った小坂一也は出演していない(その前年に東京ビデオ・ホールで開かれた第八回ウエスタン・カーニバルではワゴンマスターズのボーカルとしてトリを務めた)。平尾昌章と中島そのみは既にレコードを出していて知名度はあったが、急遽出演の決まった水谷良重を除く山下敬二郎やミッキー・カーチスたちは、日劇のような大きな舞台で歌うのは初めての歌手ばかりであった。
上の表は雑誌「ミュージックライフ」昭和33年(1958)2月号に掲載された歌手の人気投票結果(左)とその二ヶ月後の4月号の中間成績。その間には第一回日劇ウエスタン・カーニバルを挟んでいるので、比較すると出演した歌手の人気急騰ぶりが分かる。左の表は1958年度となっているが2月号掲載なので実質的には前年度1957年の総合順位。「ジャズ界」とあるのは当時、ウエスタン、シャンソン、ハワイアン、カリプソなど洋楽はひとくくりでジャズと称していたため。二ヶ月後の表(右)になると分類が細分化され、ウエスタン・ロッカビリー歌手部門となっている。左の表の男性部門3位のジェームス繁田は、シリーズ最初の「ダイハード」でナカトミの社長を演じた人。
日劇ウエスタン・カーニバルはロカビリーという言葉と共に、芸能プロダクションの渡辺プロダクション、通称「ナベプロ」がプロモートしその大成功によってナベプロ躍進のきっかけとなったことでも知られる。ナベプロは渡辺美佐の存在によって早くからマスコミにも盛んに取り上げられた。当時の雑誌を見ると「ミュージックライフ」のような音楽専門誌にはジャズミュージシャンでもある社長の渡辺晋、一般週刊誌には美貌の副社長、渡辺美佐がもっぱら登場し、メディアによって顔を使い分けるというナベプロらしい戦術の一端をみせている。昭和43年(1968)に竹中労「タレント帝国」が出版され、ナベプロによる芸能界支配の構図とその暗部が明らかにされるまでは、週刊誌に掲載された渡辺美佐関連の記事はほとんどが礼賛に近い提灯記事ばかりである。渡辺美佐はナベプロ設立された昭和30年(1955)当初からよく知られていて、第一回日劇ウエスタン・カーニバルの前年に封切られた日活映画「嵐を呼ぶ男」は、北原三枝演ずるマネージャーが渡辺美佐をモデルにしていることでも有名だ。この映画にはナベプロ社長である渡辺晋とそのグループであるシックス・ジョーズ、白木秀雄(水谷良重と結婚しその後離婚)とそのクインテットというナベプロ所属のジャズバンドが出演する以外にも、映画冒頭で第一回ウエスタン・カーニバルの出演者である平尾昌章がプレスリーばりに歌うシーンが登場する。北原三枝のモデルが渡辺美佐云々というよりも完全にナベプロの息のかかった映画だともいえる。「嵐を呼ぶ男」が最初に封切られたのは昭和32年(1957)の12月28日だが、その二ヶ月後にも満たない昭和33年(1958)2月5日、つまり第一回日劇ウエスタン・カーニバルが開催される3日前という絶妙なタイミングで芦川いづみの「佳人」と共に再映されているのは、事前プロモーション以外の何物でもあるまい。
ナベプロがその初期から日活との繋がりを持てたのは「嵐を呼ぶ男」の監督であり脚本家でもある井上梅次が深く関わっている。井上は日活に移籍する以前の新東宝時代から「ジャズ物」映画を多く撮っていた。「娘十六ジャズ祭」、「東京シンデレラ娘」、「ジャズ娘乾杯!」がそれに当たるが、昭和30年(1955)のナベプロ設立以前から、渡辺美佐(本名、曲直瀬美佐)は四姉妹とその父親である曲直瀬正雄(マナセプロ創立者)ともども、駐留軍である米軍キャンプ地にジャズバンドを始めとする芸能人を斡旋する興行師として知られ、戦後間もない頃のジャズバンド及びジャズメンのほとんどが曲直瀬親子と何らかの繋がりがあるといっていい。その関係で渡辺美佐と井上梅次は旧知の間柄だったようだ。井上梅次のジャズ物に全て出演しているフランキー堺も、元々はジャズバンドのドラマーとしてスタートしている(「嵐を呼ぶ男」でもワンシーンだけカメオ出演)。井上が「嵐を呼ぶ男」の前に日活で撮った「お転婆三人姉妹 踊る太陽」という映画は、銀座にあった有名なジャズ喫茶「テネシー」を舞台にしており、テネシーにミュージシャンを斡旋していたのはナベプロだった。この広告は日活最大の劇場であった丸の内日活で行なわれた「映画と実演」の広告で、これだけのスターを取り揃えたショーが邦画二本立ての通常料金である170円で見ることができたのだから、映画興行が最も力のあった時代が偲ばれる。
エルヴィス・プレスリー主演の「さまよう青春」という映画は、女マネージャーの力によってプレスリーがスターになっていく過程を描いたバックステージ物である。日本公開されるのは第一回日劇ウエスタン・カーニバルが開かれた直ぐ後の同年4月27日のことだが、同年5月2日号の雑誌「娯楽よみうり」に「さまよう青春 日本版」という記事があり、その中で「ロカビリー旋風のヒロイン」として渡辺美佐が取り上げられている。この記事のリードには「近く封切られるプレスリー出演映画」と書かれているように、「さまよう青春」はまだ日本未公開なのだが渡辺美佐はすでにこの映画を見ていて、「日本じゃ、あんなにセンセーショナルな宣伝をしなくても、すぐ世間が騒いでくれる」という珍しく本音とも取れる発言をしている。「さまよう青春」におけるセンセーショナルな宣伝とは、記事によるあらすじをそのまま引用すると次のようなことである。「ある時はサクラを雇ってディーク(プレスリーの役名)の悪口を言わせ、若いファンを興奮させたり、楽屋に押しかけて強引に彼のキスを奪った少女の写真を新聞に出したりして」。
写真メディアの宣伝における重要性については、「さまよう青春」のゴシップ写真と同じようにナベプロも十分に認識していた。第一回日劇ウエスタン・カーニバル初日には数社の新聞カメラマンが同座していて、多数のライブ写真が残されている。これは1950年代に開かれたコンサートとしては極めて異例な事だ。毎日新聞社、読売新聞社、共同通信社に関しては客席からステージを写したのではなく、その逆の視点であるステージ脇から客席の「狂乱ぶり」を写した写真が存在する。まるで予めそうなることが判っていたかのように。これは主催者側(ナベプロ)がコンサートが始まる前に、各社ごとにカメラマン用の指定席をステージ脇に用意していたということだろう。また「ロカビリー旋風のヒロイン」の記事には渡辺美佐のこんな発言もある。「私が親衛隊の女の子たちを雇ってパンティを投げさしたり、舞台へ上がってキスするように指令したのだなんていう方もあるし、トイ・テープ(舞台に向かって投げられた無数の紙テープのこと、筆者注)も私の演出だなんて大分世間では誤解しているようだけど、私はただ、若い歌手たちの持っている後援会の組織力の大きさを知っただけ。そしてそれをフルに利用しただけなんです」。最初のきっかけさえ与えれば「日本じゃ、あんなにセンセーショナルな宣伝をしなくても、すぐ世間が騒いでくれる」、つまり日本人の付和雷同という属性を利用すれば簡単だ、ということだろう。最初に親衛隊の一人に頼んで(雇うわけではなく利用しただけ)舞台に駆け上がりキスするように仕向ければ、そうしてもいいんだ、と我も我もとヤラセでは無い同調者が押しかける。後はパニック心理と同じで、舞台から引きずり下された(平尾昌章)とか、陰部を触りまくられた(山下敬二郎談)とか「何でもあり状態」となるわけだ。
最初の新聞広告の違いの答えが遅くなってしまった。毎日新聞では「ロカビリイ」とあるのに対して、朝日新聞はこの歴史的なキーワードが抜けていて「ウェスタンシンガー」としか書かれていない。第一回日劇ウエスタン・カーニバルはロカビリーブームの頂点に位置するものではなかったのか?この新聞による表現の大きな違いは小坂一也を抜きにしては語れない。
この写真は第一回日劇ウエスタン・カーニバルが終わった直後の昭和33年(1958)3月8,9日の両日、場所をできたばかりの新宿コマ劇場に移して行なわれたロカビリーショウである。月刊の大衆読物誌に掲載されたこの写真は日劇ウエスタン・カーニバル同様に、客席ではなくステージ脇から撮られた写真で、画面奥に写っている多くのカメラマンが、この写真を写したカメラマンの脇にも同様に存在しただろうことを想像させる。記録が無いので詳細は分からないが第二回目が開かれる同年5月26日までの間に、場所を変えてほとんど間断なくロカビリーショウは演じられた。