「添え物映画」伝説 〜鈴木清順と中平康(2)


広告(3)。昭和35年(1960)11月に封切られた「くたばれ愚連隊」から昭和37年(1962)12月の「俺に賭けた奴ら」まで、この時期には和田浩治主演ものが集中している。「くたばれ愚連隊」「東京騎士隊」の二作に併映作品の表示がないのは、共に益田喜頓主演の「刑事物語」というまことに地味な添え物シリーズ(「けものの眠り」の併映作も同じ)だからで、載せても特に集客に影響しないと宣伝部に見切られたのであろう。だが清順が監督したものは「刑事物語シリーズ」ではない。「海峡、血に染めて」は併映作の「俺は地獄へ行く」と広告スペース配分が二等分されている。惹句にある「豪華2本立て!」たる所以であるが、下部にある広告(8)の中平康監督の「アラブの嵐」「光る海」にみられるように、お正月映画の広告では以前から広告スペースを二等分し、豪華2本立て!を強調するレイアウトがなされていた。その後、映画産業がいよいよ斜陽化するに従って、二本立ては常にお正月映画並みに二作ともメインプログラムである、という苦肉のアイディアから二等分のレイアウトが一般的になる。「添え物映画」伝説 (1)にあげた清順日活時代のフィルモグラフィーで1965年以降に増える、緑色で示したタイトルがそれにあたる。



広告(4)と広告(5)。清順の代表作が目白押しである。中でも「関東無宿」と「春婦伝」はともに今村昌平監督作品の併映作であることが、清順の「添え物映画」伝説に寄与し、今だに日活時代の清順を語る時に引き合いに出される。「にっぽん昆虫記」は4週連続続映という大ヒットで、1週目が高橋英樹主演「続 男の紋章」、2,3週目が「関東無宿」、4週目が宍戸錠主演「地獄の祭典」が添え物映画として充てがわれた。だが「春婦伝」の場合は「関東無宿」と同列に語ることは出来ない。広告(5)の左上にある「春婦伝」広告を見れば一目瞭然なのだが、今村作品「赤い殺意」の惹句に「数々の受賞に輝く」とあるのは、つまり「赤い殺意」は「春婦伝」封切前年に公開され、「春婦伝」封切り時に再映されたということである。二本立ての抱き合わせに旧作のヒット作品を再映することは、日活では昭和33年(1958)ぐらいから行われていて、例えば下部にある広告(8)の中平康「泥だらけの純情」、「俺の背中に陽が当る」の併映は共に裕次郎映画の旧作だし、1964年封切の「月曜日のユカ」は前年作の「にっぽん昆虫記」が併映である。「月曜日のユカ」は「にっぽん昆虫記」の添え物映画だと言われることはないが、こと清順に限っては「春婦伝」が「赤い殺意」の添え物だと思われているフシがある。蓮實重彦も1991年発行のユリイカ「特集 鈴木清順」に掲載された「鈴木清順あるいは季節の不在」に於いて、「今村昌平の六十年代の作品の二本までが、鈴木清順の作品を『添えもの』として封切られていた偶然をここで想起しておくのも無駄ではあるまい。実際、『関東無宿』は『にっぽん昆虫記』、『春婦伝』は『赤い殺意』とともに公開されていたのである。」と述べているが、これは単純な誤解であることは明らかだ。「にっぽん昆虫記」の封切時の併映が「関東無宿」なのは確かだが、「赤い殺意」が再映であるにもかかわらず、蓮實の文章では「赤い殺意」初公開時の併映作が「春婦伝」だ、としか読めない。大ヒットした再映作を主眼において宣伝することはありえないことではないが、新聞広告のスペース配分や雑誌広告をみても蓮實が述べていることは事実と逆であり、「春婦伝」がメインプログラムで今村昌平の「赤い殺意」が「添えもの」だったのは明らかである。

蓮實でさえ清順の「添え物映画」伝説 にとらわれ事実誤認をおかしているのをみると、やはりこの伝説は相当に根深いと思わざるをえない。前置きが長くなった、本題に入ろう。なぜ清順は「分からない映画にファンがつくか」と題した文章において「常に二本立ての添え物映画をとる」とウソをいったのか?それを探る手がかりとして日活時代の清順と中平のフィルモグラフィーを封切り年別にまとめた表を作成してみた。地の色が濃くなっている4作品は清順と中平の作品が同時上映だったことを示している。中原の日活での監督作は計37作。清順と同じく全て封切り時の新聞広告から判断すると、その中で「添え物映画」といえるのは処女作「狙われた男」と、「密会」「現代っ子」の3作のみである。清順が「一度だって日活の看板スター、石原裕次郎氏や吉永小百合嬢と一緒に仕事をさせてもらったことはない。」と書いた裕次郎氏とは5作、小百合嬢とは3作一緒に仕事をしていて、それもほとんどが二人の全盛時代の代表作といっていい。昭和36年(1961)公開「あいつと私」は、裕次郎がスーキーによる不慮の事故で骨折し、半年間のブランクを経て再起後初となる主演作で、裕次郎映画では最大の興収を上げた。吉永小百合は昭和37年(1962)封切の浦山桐郎監督「キューポラのある街」や橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」の大ヒットで人気爆発、その翌年の中平監督作、「泥だらけの純情」と「光る海」でその人気を不動のものとした。特に裕次郎では「アラブの嵐」、吉永小百合では「光る海」が共に正月映画だという意味は大きい。プログラムピクチャー時代の正月映画は出演するスターや監督にとっても特別で、映画各社の看板スターが出演しエース監督が担当する。「あいつと私」で大ヒットを飛ばした中平は、60年代前半の日活の輝けるエース監督だった。

清順のエッセイを読んだことのある人ならお分かりになると思うが、彼の書く文章というのは人を煙に巻くようなモノが多い。難解ではないのだがレトリックが独特で読後に何か化かされたような気分になる。さすがに作家では石川淳が好き(座談会での発言)と公言するだけのことはある。その点、再三取り上げる「分からない映画にファンがつくか」は解雇通告に対する反論という意味もあるが、清順の書いた文章の中では例外的に率直で、感情的な部分も垣間見られる。今一度、「常に二本立ての添え物映画をとる」を含む文章の全体を再録してみよう。「私など十何年の監督生活で、一度だって日活の看板スター、石原裕次郎氏や吉永小百合嬢と一緒に仕事をさせてもらったことはない。私の才能が看板スターを使うのに適していないのかもしれないが(私が石原氏や吉永嬢とやれば面白い変わった映画ができるという人もいた)、石原氏や吉永嬢の全盛時代に一緒に仕事をやれば、私だって堂々黒字監督となり、常に二本立ての添え物映画をとる、日の当たらない監督になりはしなかっただろう。」これはやはり松竹に助監督として同期入社しその後、日活へと移籍するという同じ道を辿り、映画はフォルムに過ぎないとする清順と同じ映画的感性を持つ、エース中平康を念頭においた発言としか思えない。特にカッコで括られた部分、(私が石原氏や吉永嬢とやれば面白い変わった映画ができるという人もいた)は中平監督作のそれは面白くない、という風にも読める。

もう一つこの引用した文章で引っかかるのは、断定的で感情的な物言いの匂いがする「常に」を含む、「常に二本立ての」の部分である。これを差し引いて改めて読みなおしてみると、「添え物映画」という言葉が別の意味合いを帯びてくる。日活映画全体の流れの中で、看板スターである裕次郎吉永小百合が主演する以外の映画は全て「添え物映画」だ、とするプログラムピクチャーに対するひとつの見識としては的を得た表現となる。看板スターを撮らせてもらえなかった日の当たらないプログラムピクチャーの監督だった、という意味だ。問題はこの「常に二本立ての」の部分で、これさえなければ清順はウソをいっていることにはならない。「常に二本立ての」と思わず筆を滑らせてしまったものが、中平に対するコンプレックスと己を突然解雇した日活に対する鬱憤だったとすれば、清順も狐狸妖怪を離れて人間らしく思えてくる。中平の没後に書かれた「堕落者」という追悼文の中にはこうある。これほどウソ偽りのない正直な実感はないと思う。「伊達と才気で日本映画の旗手として出発した彼の監督としての存在はまぶし過ぎるほどまぶしかった。」

下は日活で中平康が監督した全作の新聞広告。