「添え物映画」伝説 〜鈴木清順と中平康(1)

清順は怪しい。それは彼の映画ばかりではなく、人としてもかなり怪しい。もしかしたら狐狸妖怪のたぐいかもしれない。最近の結婚報道をみてもさすがに「ツィゴイネルワイゼン」の監督だけあって、世間体などという俗人がこだわる分別ともはなから無縁なのだろう。それはともかく日活時代の鈴木清順は不遇で添え物映画ばかりを撮らされていた、という通説がある。添え物映画というのは二本立て興行が一般的だった時代に、スターが主演するメインプログラムの添え物として製作された映画で、いわば星明りの影に隠れた日陰のような存在である。この通説には清順自身が関わっていて、彼が書いた文章の中でそう述べているから間違いないと思われてきた。それは清順が「わからない映画をつくる」という理由等で日活を解雇された昭和43年(1968)に、その反論として雑誌「勝利」同年8月号に掲載された「わからない映画にファンがつくか」と題する文章である。その中で自分の日活時代を振り返ってこのように述べている。「私など十何年の監督生活で、一度だって日活の看板スター、石原裕次郎氏や吉永小百合嬢と一緒に仕事をさせてもらったことはない。私の才能が看板スターを使うのに適していないのかもしれないが(私が石原氏や吉永嬢とやれば面白い変わった映画ができるという人もいた)、石原氏や吉永嬢の全盛時代に一緒に仕事をやれば、私だって堂々黒字監督となり、常に二本立ての添え物映画をとる、日の当たらない監督になりはしなかっただろう。」ここまでキッパリと自身のことを定義されれば誰でも信じざるを得ない。

現に山根貞男キネ旬の「日本映画テレビ監督全集」(1988年初版)に掲載された鈴木清順についての小論で、「デビュー以来、お仕着せ企画のプログラム・ピクチャー、それもメイン番組ではなく併映作のほう、鈴木清順いうところの "ついで映画" をえんえん撮ってきた」と述べ、"ついで映画"を撮ることの方法論が先鋭化することで、清順独特の映画を生み出してきたとしており、この小論の前提として日活時代の清順は二本立ての添え物専門の映画監督だということになっている。それまで対談などでの発言はあったが、清順初の署名記事による文章である「わからない映画にファンがつくか」はもちろん資料価値があるものだろうし、その中で清順が自分自身について述べた記述なのだから信頼するに値する、と山根が思うのは当然だ。だが、清順のいう「常に二本立ての添え物映画をとる」というのは真っ赤なウソなのである。下に掲げた表は清順の日活時代の全作品(計40本) の公開時の新聞広告から判断して作成したもので、タイトルが赤字なのがメインプログラム、黒字が添え物映画、緑字が音楽で例えると両A面シングルのようなもので、どちらがメインとはいえないものである。小さな文字の青字はクレジットのトップに来る主役で、主役を比べればどちらがメインプログラムか分かる場合もあるが、そうとばかりは言えない場合もあるのでやはり新聞広告が一番わかり易い。

どちらがメインプログラムかを判断する基準は極めて単純で、広告スペースが大きい方がメインということになる。映画会社も売りたいものを視覚的に目立たせて大きく扱うのは当然である。総タイトルの中から緑字タイトルを除く32作品の内、清順が監督した「二本立ての添え物映画」は14本にすぎず、メインプログラムのほうが18本とそれを上回っていることがわかる。全40タイトルの新聞広告があるので、それをみながら日活時代の清順を辿ってみたい。

まず広告(1)の処女作から監督10作目の「影なき声」まで。左上にある処女作「港の乾杯 勝利をわが手に」はメインの「色ざんげ」下部にわずかに見えているにすぎない。まことに添え物映画に相応しい扱いで、監督名の鈴木清太郎(清順の本名で第6作「裸女と拳銃」までは清太郎名義)のクレジットもない。第6作「8時間の恐怖」は扱いが大きいのに何故メインプログラムではないのかというと、併映の「危険な関係」が好評で続映二週目となり、二週目の添え物として充てがわれたのが「8時間の恐怖」ということ。二週目突入前日の新聞広告なので添え物の方が大きく扱われているに過ぎない。プログラムピクチャー全盛時代は二本立てが週替わりで変わったが、ヒットすると週をまたいで続映となり、併映作つまり添え物映画だけを変えて公開するということが行われていた。問題なのは第6作「裸女と拳銃」から始まって、第10作「影なき声」までの作品。清順監督作のほうが大きく扱われていて、添え物映画ではないのは一目瞭然だ。では「常に二本立ての添え物映画をとる」監督と自称していたのは何だったのか?

その考察は後にゆずるとして注目すべきは第3作「悪魔の街」が「狂った果実」の添え物だったことだ。「狂った果実」の監督、中平康鈴木清順は昭和23年(1948)に松竹に助監督として同期入社し、その後製作を再開して間もない日活に移籍するという同じ道を歩んでいる。監督昇進は清順のほうが早かったのに、中平は公開第1作目がいきなりメインプログラム。それも清順がついに監督することのなかったスター石原裕次郎出世作であり、中平が脚光を浴びるきっかけともなった「狂った果実」の "ついで映画" が清順の「悪魔の街」だったわけだ。「狂った果実」は興行的にも成功し評論家にも好評で、中平はマスコミへの露出度も高くなる。有名な「反・荘重深刻派」という文章は、これまた有名な増村保造の「ある弁明」と並んで同じ昭和33年(1958)3月号の雑誌「映画評論」に掲載される。「特集・新人宣言」の中のひとつとして書かれたもので、新人らしからぬ歯に衣着せぬ物言いで共に注目された。その後二人はライバルとして盛んに比較され論じられることとなる。

清順と中平は松竹の助監督から日活への移籍と、同じ経歴を持つにもかかわらずマスコミで比較されることはなかったし、中平の生前にお互いのことに言及することもほとんど無かった。もっとも清順が注目され出すのはずっと後になってからで、昭和41年(1966)11月号の「映画評論」誌に掲載された「異端を訪ねる 鈴木清順の霊峰」という清順を交えた座談会が端緒である。しかし二人には経歴以外にも実は共通点が多い。先にあげた中平の「反・荘重深刻派」という言葉は松竹時代に吉村公三郎からきいたと述べている。荘重深刻な映画がそのテーマ性だけで評価されて、映画技法的には問題にされないことを皮肉交じりに言った言葉だ。それに対して清順も大船メロドラマの中では吉村公三郎が好きだったという。小林信彦によれば「吉村公三郎ほど、一つのショットを、ストーリーの流れとつながりなく【見世物】にしてしまう人はいなかったとも思う」。さらに映画に対しての考え方もよく似ている。中平は「反・荘重深刻派」のなかで「話術とか、描写力とか、美的感覚とかは作家として用がないのかと云いたくなる」と述べているが、これは清順が「異端を訪ねる 鈴木清順の霊峰」のなかで語った、「映画というのは一つのフォルム以外のなにものでもない。形式ですね。」との発言と見事に呼応している。表現が違うだけでほとんど同じ事を云っている二人だが、「ズーさん(中平の愛称)は身なりも気障なら言動も気障」(中平の没後に書かれた鈴木清順「堕落者」より)。いっぽう清順はというと、腰手ぬぐいで撮影所内をうろつくような薄汚い男だった。

広告(2)。第11作「らぶれたあ」の扱いは正に裕次郎映画の添え物といった雰囲気。第13作「素っ裸の年令」は赤木圭一郎主演にもかかわらずメインプログラムではないのは、これがブレイク前の赤木の初主演作だからで、こういったことは広告を見ないでキャストだけで判断すると分かりづらい。あと「すべてが狂っている」を除く4タイトル、「暗黒の旅券」「その護送車を狙え」「けものの眠り」「密航0ライン」は添え物映画ではなく、メインプログラムである。(以下続く)