挽歌〜ムード広告と久我美子に漂うムード


小説「挽歌」は昭和31年(1956)暮れに発売され、翌年にはベストセラーとなり最終的には72万部を売り上げた。昭和32年(1957)9月には久我美子主演、五所平之助監督で映画化されている。配給した松竹としては「君の名は」に継ぐ戦後二番目の興収をあげた大ヒットとなった。映画「挽歌」の広告は、同じく久我美子主演で昭和28年(1953)に封切られた大映映画「再会」の広告と比べると、いかに異質な広告であるかが見て取れる。「挽歌」のスチルには「再会」でも共演した森雅之が登場せず、北国特有の荒涼とした風景をバックに、久我美子とやっと分かる程度の大きさで人物が佇んでいるだけだ。男優の中もトップクラスの共演者の不在と、寒々とした風景主体のこの広告写真は、小説「挽歌」が新聞雑誌でどのように宣伝されてきたかを辿ることによって明らかとなる。電通の広告景気年表によるとこの映画が公開された昭和32年は新聞広告費が500億円を超えた年、ということが特に明記されている。朝鮮戦争によってもたらされた朝鮮特需によって、「神武景気」と名付けられた好景気が購買層の拡大をもたらし、それにともなって広告宣伝のもたらす絶大な効果も、売り手である企業家にとって当たり前の認識となった。翌年の昭和33年(1958)にはキャラメル企業間の激しい宣伝合戦を描いた増村保造監督の「巨人と玩具」も公開されている。

映画「挽歌」が公開された同じ年、昭和32年(1957)に発売された「恐るべき広告」という本がある。企業の広告宣伝費が膨大なものになるにつれて、あの手この手で消費者を惑わす広告戦略がどのようなものであるかを説く一種の啓蒙書であるが、この中にベストセラーに触れて「太陽の季節」「楢山節考」そして「挽歌」の原田康子も広告によって作りだされた新人にすぎない、という記述が出てくる。「広告によって作りだされた」とは一体何をさしているのか?「挽歌」は創立間もない東都書房より出版されている。東都書房講談社の別名会社だが独立採算制をとっていた。そのような新会社が全く無名の素人作家の作品を出すのはもちろん無謀なのだが、出版を後押ししたのは同年に発売されたの無名の学生作家、石原慎太郎の成功と共に、出版の採否を握っていた高橋編集長の娘(日本女子大在学中だった)が一役買っている。「こんなタイプの若い女性がいるかしらと思うほど、怜子という主人公は変わっている。でもその言動はいわゆる太陽族などとは違い、深い共感をさそうものがあるし、それに文体がとてもキレイで読みやすかった」。この発言は「挽歌」における女性にターゲットを絞った徹底的なイメージ戦略(当時はムード広告といった)を採った一連の広告の出現を予告している。「挽歌」の広告はセンセーショナリズムが主流だった当時の広告業界に新鮮な衝撃を与え、同年の電通広告賞を受賞した。「広告によって作りだされた新人」とはこの事実を指している。

ではその広告とは具体的にどういうものだったのかを順に辿ってみたい。まず昭和32年(1957)2月23日の夕刊に掲載された新聞広告(1)。九万部を突破し売れ行きに火がついてきた頃である。枯れた木立の中で物憂げに佇む女性の写真。新聞広告なので網点が荒く分かりづらいかもしれないが、この女性は久我美子でもなければ作者の原田康子でもない。モデルを使った怜子のイメージ写真なのだ。五所平之助が挽歌に目をつけたのは挽歌がまだ単行本になる前で、「北海文学」という同人誌に掲載されていた頃だった。ずいぶん目先のきいた話だが映画化権はすでに五所の独立プロが取得していた。その経緯は本稿とは無関係なので省くが、この広告には小説タイトル下に映画化決定の文字が見える。この時点では映画のキャストはまだ未定なのだが、まるで映画のスチルのような広告写真が使われている。またこの小説はいわゆる姦通小説、今でいう不倫を扱った小説であるにもかかわらず、扇情的なキャッチは影を潜め主人公の内省的なモノローグで占められている。ムード広告といわれた所以であるが、今の眼で見ればしごく平凡に見えるかもしれない。が、当時としては画期的な広告だった。

次は同年4月号雑誌「若い女性」掲載の雑誌広告(2)。この時代にはまだ女性週刊誌が「週刊女性」だけしか存在せず、芸能雑誌「平凡」「明星」を除けば唯一ビジュアルを中心とした女性向け月刊誌が「若い女性」だった。先にあげた広告との違いはモデルを使った怜子が居ないこと。その代わり広告内の囲み記事で映画化に向けた具体的な内容に触れている。一部を抜書きすると「作者も本人も希望した久我美子さんが主演を予定されている」。久我美子の名前が実際に出た以上、モデルを使った映画のワンシーンを思わせる写真が使えなかったということかもしれないし、またこの広告が掲載された「若い女性」の表紙が久我美子なので、一種のメディアミックス的な広告展開だったということも考えられる。ところで久我美子ほどニュアンスや雰囲気、ムードといった言葉で語られてきた女優が他にいるだろうか?それはやはり公爵令嬢という出自がものをいっているのは勿論だが、その出自にたがわない華族としてのパブリックイメージを体現していたのが久我だった。ノーブルな顔立ちと高貴さ漂う独特なエロキューション。それはこの「若い女性」の表紙写真が雄弁に語っている。久我の周りを飛び交う色とりどりの優美な蝶は当時、久我自身が温めていた企画として堤中納言物語の中の「虫愛づる姫君」をイメージしたものかもしれないが、やはり「蝶よ花よと育てられ」た公爵令嬢、というムードが視覚化されている。

三番目は同年5月21日の新聞広告(3)。前回の広告では14万部だった部数が二ヶ月も満たないうちに36万部を突破している。「映画化決定」の文言は見えるが前回の広告では主演予定として具体的に触れられていた久我美子については書かれておらず、一歩後退して久我の名前も見当たらない。主演が未定なのは、匿名モデルが再び登場してきたことからも伺える。この主演キャスト決定の遅れは当時久我が在籍していた「にんじんくらぶ」の女優、岸恵子が同年の5月に国際結婚した余波があるのではないかと考えられる。この結婚が唐突だったことは小津安二郎の「東京暮色」への出演が決まっていた岸から、同じにんじんくらぶ所属の有馬稲子に代わったことからも想像がつく。岸、有馬、久我の三人に支えられていたにんじんくらぶが、岸の結婚によって存続の危機にさらされた時期と、「挽歌」主演が久我美子にやっと落着するまでの期間とが重なるからだ。これは余談になるが「映画化決定」の上に「第八回女流文学賞受賞」と書かれているこの賞は、にんじんくらぶ代表の若槻繁が出版社「鎌倉文庫」編集長時代に創設した賞である。

最後は同年7月4日の新聞広告(4)。映画「挽歌」の公開日は二ヶ月後の9月1日。映画公開に先立って久我美子が写っている映画のスチルが小説の広告写真としてそのまま使用されている。映画の原作である小説の文庫本帯に映画のスチルを使い、映画公開と合わせて販売するのは1970年代に角川商法と呼ばれたものが有名だが、それと似たような手法が1957年にすでに行われていた。最初に取り上げた映画「挽歌」の広告が異質なのは、小説「挽歌」の広告に漂う「ムード」をそのまま踏襲しているからで、これまでの映画広告的文法から逸脱していたからだ。商品(ここでは小説)の購買層を絞り、そのターゲットに合わせたパッケージでイメージ統一した宣伝手法はいまではごく当たり前となっているが、この時代にはそれが「ムード広告」と呼ばれ斬新だったのだ。ムードという言葉は、今ではイージーリスニングと呼ばれる一連の音楽が「ムードミュージック」として注目されだしたこの時代の流行語でもあった。ムードミュージックの中でも特に映画音楽は印象的で甘美なメロディで人気があった。映画音楽の特徴はそのままムード広告にも通じる。神武景気のような好景気になると働く女性の数も増加するに従い女性の購買層も増加して、品質と共に商品の印象が購入の決め手となる。ムードという言葉はそういう時代背景の中で流行し、「挽歌」に登場する森雅之のような中年紳士に対しての褒め言葉としても使われた。「あの人、ちょっとムードがあって素敵ね」。