太陽族映画(その2)〜 大宅壮一と女太陽族映画

太陽族という言葉は大宅壮一による造語だということになっているらしい。斜陽族と同じで小説のタイトルに「族」を繋げただけのお手軽な造語で、キャッチーでひねりの効いた新語を生み出してきた大宅にしては、この太陽族という言葉はいかにも出来が悪い。大宅が小説「太陽の季節」をいかに語ってきたかを辿ることで、太陽族という言葉の出自を探ってみたい。最初に大宅が書いたのが「『太陽の季節』戦前篇」というエッセイで、文藝春秋別冊漫画読本昭和31年(1956)3月5日号に掲載されている。文意を要約すれば、「太陽の季節」に描かれた背徳的な世界は特に目新しいものではなく、歴史の転換点にあっては若い世代と古い世代の断層の間に発生するもので、当時50代だった大宅が青年期だった大正末期には第一次世界大戦が終わった混乱期で、大宅自身も第一次世界大戦後のアプレゲール(戦後派)だった。第二次大戦後のアプレゲールを象徴する「太陽の季節」世代の無軌道ぶりとさしたる違いはなかった、というもの。このエッセイの中で「太陽の季節」世代のことを指してまだ太陽族という言葉は使われていない。

次は石原慎太郎藤島泰輔を交えた三者対談で、最初のエッセイから二ヶ月後の週刊東京5月5日号に掲載された「太陽族の健康診断」と題する記事。この記事は大宅が太陽族という言葉を造ったとされる文章にはその出典として引き合いに出されることが多い。大宅はこの中で一度だけ太陽族という言葉を使って発言しているがその部分を引用してみる。「『太陽の季節』は、すでに喫茶店の名前にもなっているし、"太陽青年" とか "太陽族" という新語まで生まれている」。太陽族という新語はこの対談以前にすでに生まれていた、と大宅は発言しているのだ。こしらえ事を既成事実のように語って相手の反応を探る、いわゆるカマをかけるという手口は三流ジャーナリストならやるかもしれない。だが大宅壮一に限ってそんなことをするとは思えないのは、例えば次に挙げる事例を見ても分かる。石原慎太郎は彼の両親ともども熱心なメシア教(現在の世界救世教)信者で、慎太郎が芥川賞受賞直後に若くして結婚したのも、彼の母親と妻の典子の母親が共にメシア教信者だったことが知り合うきっかけとなっている。大宅壮一はメシア教の教祖である岡田茂吉に関する文章により教祖から名誉毀損で告訴されているが(慎太郎デビュー以前のことである)、メシア教との関連で慎太郎に対して非難めいた言辞を弄したり、予断めいた発言をしたことはないのだ。

三番目の記事は同年6月号の中央公論に掲載された「ブームのブーム」という記事で中野好夫花森安治との対談。映画「太陽の季節」が封切られたのが5月だから「太陽の季節」ブームの真っ只中で行われた対談だが、この中で大宅は太陽族という言葉を一切使っておらず、先に挙げた週刊東京に於ける発言にもある「太陽の季節」という名前の喫茶店ができた、ということで「太陽の季節」ブームを語っているに過ぎない。それ以外にこの対談の中で最も注目すべき点は、大宅による次の発言だろう。要約すると「言葉を発明すると現実が後からついてくる、ジャーナリズムが先に火事だ火事だと言い出すから火事になる」。この言葉はそのまま太陽族にも当てはまる。太陽族という言葉が生まれたからこそ、現実にイメージとしての太陽族を模倣したり追従するものが現れてブームとなる。そういうカラクリを熟知していた大宅が、わざわざ慎太郎のために太陽族という言葉を造ってブームを煽るような真似をするとは到底考えられない。だからあえて結論めいたことをいうとすれば太陽族大宅壮一による造語ではないが、雑誌で初めて用いたのは大宅壮一かもしれない、ということだ。

言葉を発明すると現実が後からついてくる、というのは太陽族という言葉と共に慎太郎ブームを支えたその名も「慎太郎刈り」と呼ばれた髪型にもいえる。他にもアロハシャツ、落下傘型スカートなど太陽族を象徴するといわれる若者ファッションが町に溢れた。ファッションと「族」とが密接に結びついているのは繰り返し歴史が教えてくれる。ロックンロール、モッズ、パンク、ゴスなど類型的な定番ファッションに支えられて初めて「族」としてのアイデンティティの中で安住できる。慎太郎刈りは石原の通っていた逗子市の理容店主が石原とともに協議して考案したような風説があるが、まあそれならそれで構わない。ただ同時代的には北原三枝による次の発言に集約されている。「慎太郎刈りというのですか、ああいう髪の刈り方は太陽族がうみ出したものじゃないので、だいぶまえからありますね。」昭和31年(1956)10月号、雑誌「知性」掲載の『夏の嵐』原作者の深井迪子との対談より。
より具体的に言えば慎太郎刈り朝鮮戦争時に米軍兵士がしていたGIカットのバリエーションで、日本で広く知られるようになったのは石原が芥川賞を受賞する少し前に封切られた映画「暴力教室」主演のグレン・フォードがGIカットだったからだ。グレン・フォード朝鮮戦争から復員して教員となり、クラスの少年たちに地獄のような目に合わされる。(Korean War veteran Richard Dadier [Glenn Ford] faces a class of boys who make his life hellish.) 三島由紀夫も当時同じような髪型をしていたが、「慎太郎刈り」は「太陽族」と同じように言葉として発明されることによって石原固有のものとなり、ファッションとして模倣者が続出した。当時のキネ旬によれば映画「太陽の季節」の宣伝作戦として、理髪店に慎太郎刈りささやき戦術をとってもらったという。

最初に挙げた大宅壮一のエッセイ「『太陽の季節』戦前篇」によれば大宅が青年期を過ごした大正末期にはモラル的にもリベラルな女性が数多く輩出した。林芙美子平林たい子壺井栄などがその代表であると書かれている。同じように慎太郎が登場した昭和30年代初頭は第二次大戦後から十年経過し、戦中の混乱期にはまだほんの子供で実感としての戦争体験を持ち合わせていない世代が成人となり、戦前派と戦後派との断層の中で慎太郎と同じく戦前派のモラルを混乱させるような女性作家が現れる。「逆光線」の岩橋邦枝などはその代表格でマスコミはさっそく「女慎太郎」なる言葉を発明し奉った。「逆光線」は昭和31年(1956)6月号の雑誌『新女苑』に二十代作家十二人集の一人として掲載され、同じ号には慎太郎と舟橋聖一芥川賞選考委員の中で石原を推した一人)との対談も載っている。東宝との契約の関係で石原の原作モノが三本しか取れなかった日活が(「灰色の教室」はその後、映倫の勧告を受け入れて製作中止となる)、太陽族映画は儲かるというので先物買い的に映画化契約を結んだ。この時彼女はまだ御茶ノ水女子大4年生で、年齢も石原より1つ年下である。「太陽族」という言葉が慎太郎を離れて風俗的に一般化した以上、「太陽(族)映画」と名付けてしまえば原作者とは関係ないものとなる。小説「逆光線」もこれまでの女性の処女性や純潔といったものの持っていた価値に疑問を投じた小説で、太陽族映画としては格好の題材となるはずだった。

ところが太陽族映画(その1)にも書いたように映画「処刑の部屋」がきっかけとなって太陽族映画上映反対運動が盛り上がり、堀久作日活社長が「太陽族映画の企画・製作中止」を発表したのが「逆光線」公開のわずか三日後であった。すでに製作に入っていた同じく早稲田の女子大生作家、深井迪子原作の「夏の嵐」は太陽族映画として宣伝することが出来なくなり、惹句にはそれを匂わす文言は入っていない。もっとも先にあげた北原三枝との対談の中で深井迪子が「太陽族映画なんてレッテル貼られたくないですね」と発言しているので原作者としては幸いだったかもしれない。この発言は慎太郎ブームの亜流として見られたくない、という若者らしい意気込みが感じられて清々しいが、その後すっかり忘れられた作家となりわずかに映画「夏の嵐」の原作者として名を留めているのは寂しくもある。「夏の嵐」はヴィスコンティの同名映画からインスピレーションを得ていて、そこにも戦後派作家らしいこだわりの無さを感じるが、広告を見ると中平康ではなく川島雄三が監督となっている。監督が交代した経緯は調べても明らかにならなかったが、「夏の嵐」を紹介した当時のキネ旬の文章がふるっている。太陽族映画という言葉が使えないので、「監督は『狂った果実』でこの種映画に手を染めた中平康」。この種映画に手を染めた、なんてまるで悪いことでも仕出かしたのか?中平康