鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(3)〜昭和39年とはどのような年であったか

映画「肉体の門」が公開された昭和39年(1964)について語るには、その前年から話を始めたほうがいいかもしれない。キネマ旬報に1963年度の映画界を振り返った記事があり、テレビ普及率の増加と、映画観客動員数の急激な落ち込みから、1962年に東宝藤本真澄専務が発した非常事態宣言がさらに悪化したことで、日本映画五社が資金難のため旧作映画のテレビ放出を決め、邦画五社のうち、松竹、日活、大映が無配当となったとある。年間映画観客数は最多の昭和33年(1958)と比べると、43%の減少となっている。この年に日活の江守清樹郎専務が「今後、斜陽という言葉は禁句にしたい」と発言したのは、映画産業の斜陽化が恒常化したためである。ではどうすればテレビに対抗できるのか?そのためにはテレビで放映できないコンテンツを増やす、という方向へと向かうのは当然といっていいだろう。それはまず、今までにはみられなかった激しい暴力描写を含む映画が、黒澤明監督「用心棒」(1961年公開)を皮切りに、「残酷ブーム」とよばれた一連の映画が生み出されることになる。「切腹」「武士道残酷物語」「陸軍残酷物語」などである。その後をうけて、やはりテレビでは放映できないセックス描写を含む映画が昭和39年(1964)にブームを迎えることとなる。

昭和39年(1964)といえば戦後最大のイベントである東京オリンピックが10月10日より開催された年である。東京オリンピックは戦前の昭和15年(1940)にいちど開催が決定していたが、日中戦争のあおりで開催を返上し、戦後においては東京オリンピックの四年前にあたるローマオリンピックの時にも、開催地として立候補し敗れた経緯がある。積年の念願がかなった東京開催が決定したのが昭和34年(1959)のIOC総会で、それ以降まさに国の威信をかけてオリンピックに向けて準備を進めることになる。オリンピック開催が映画産業に与えた直接的な影響としては、オリンピックがTV中継されることがテレビ購入のさらなる弾みとなり(開催前年度の1963年において88.7%の普及率)、映画観客動員数の激減につながる要因になったことと、洋画の輸入自由化が挙げられる。それまでは大蔵省の統制を受け、業者ごとに洋画の輸入本数割当が決められていて、保護貿易状態だったものを自由化したのは、先進国である日本と国際都市「東京」を国外にアピールする一環としてあった。このことは明治初年にキリスト教が禁教でなくなり、信仰の自由が法律によって認められた事と似ている。禁教令撤廃は列国に対する、新生日本の文明国としてのアピールが目的だった。

斜陽化にあえいでいた邦画業界にとって洋画の輸入自由化は泣きっ面に蜂だったが、東京オリンピック開幕直前の6月から実施された洋画自由化に先立って、映倫規定が事実上緩和されたのは、表現の自由が(芸術の名のもとで)保証された先進国としての体面を示すとともに、ジリ貧の邦画業界に対するお目こぼし的な意味合いもあったに違いない。具体的には同年2月に封切られた、勅使河原宏監督「砂の女」における岸田今日子の全裸演技が、必然性のある「芸術」というお墨付きがあったにしろ、成人映画ではなく、一般向き指定で上映され大ヒットを記録したことがキッカケとなり、これに後押しされた形で邦画五社はこぞって裸映画を競作することとなる。代表的なものをあげると東映「二匹の牝犬」「越後つついし親不知」、大映「卍」「悶え」、東宝「女体」、松竹「白日夢」「紅閨夢」、日活「月曜日のユカ」「猟人日記」そして「肉体の門」となる。野川由美子が全裸で吊るされのは、東京オリンピックの年に始まった裸ブームの真っ只中のことであった。

この中で最も興行的に成功したのは松竹配給の武智鉄二監督「白日夢」である。製作したのは武智個人が主宰する第三プロダクションで、一説によると製作費が五百万から八百万に対して、松竹の買取価格が一千七百万、配収が三億円といわれている。この映画は文豪、谷崎潤一郎原作を旗印とすることで映倫審査を乗り切った。衰退する大手五社を尻目に、少ない製作費でその数倍の興収を上げる、通称エロダクションといわれたエロ映画専門のプロダクションが目立って台頭するのもこの年である。ピンク映画とよばれたエロ映画に出演する女優も、大手五社で日の当たらなかった女優が起用されたりした。「白日夢」に出演した松井康子は松竹在籍中に牧和子の変名で、エロダクションの老舗、国映で「妾」に主演した。また日本初の本格的SM映画とされる、小森プロダクション製作の「日本拷問刑罰史」が封切られたのも、東京オリンピックが終わったすぐ後で、「妾」と同じく大ヒットした。「肉体の門」と「日本拷問刑罰史」に共通するのは、東京オリンピックと連動した映倫規定の緩和とともに、テレビ普及率の増加によってもたらされた「残酷」と「裸」という映画界の二大潮流にうまく乗ったことである。これが「肉体の門」がヒットした第一の理由である。


昭和39年(1964)は終戦から数えてちょうど二十年目にあたる(数え年と同じ数え方、昭和20年を一年目とする)。二十年といえば人間で言えば成人となり、終戦の年に生まれた子供が数えで二十歳になる節目の年である。「肉体の門」の伊吹新太郎のように、終戦で戦地から復員してきた二十代の若者も、社会の中枢を担う四十代の働き盛りとなっている。そんな壮年となった彼らも含む戦争体験者が、戦後二十年という節目にあって人生を振り返った時、おのが若き日々を戦争というものにささげ、また奪われたことに対する自問自答が、社会全体を覆う情念となって広がっていた。それはたとえば、この年に出版された昭和戦争文学全集や、林房雄の「大東亜戦争肯定論」などの広告リードにも端的に示されている。それは戦争を否定、あるいは肯定するにせよ、歴史学的な分析用語ではなく、暗黒、悲しみ、情熱といった「情念」を感じさせる言葉によって語られているからだ。そのことはまた二十年というスパンが、戦争というものを客観的に見つめ直すにはまだ生々しすぎた、ということかもしれない。

戦後二十年たった節目の年に、戦争の記憶をあらたに甦らせたのが東京オリンピックである。環七、首都高速一号、四号などの新設道路、国立競技場、日本武道館などの競技場施設、ホテルニューオータニなどの海外観光客のための宿泊施設などの建設ラッシュが相次いだ。また外国人に対して恥ずかしくない国際都市としての体裁を整えるために、景観の規制やこの時代にはまだ残っていた、終戦直後の雰囲気が残るスラム街の撤去なども行なわれた。日本最大の土木事業となった東海道新幹線開通のための工事も重なり、それらの工事に伴う徹底した「破壊と再生」は、戦争体験者にとって終戦直後の国土の「荒廃と再生」をフラッシュバックさせたはずである。終戦直後の作品である「肉体の門」の再映画化が東宝と日活で競作という形になったのも、戦後二十年という区切りと東京オリンピック開催によってもたらされた、終戦直後へと回帰する集団的な情動の現れであろう。また映画離れが進んでいた四十代以降の人々を、再び映画館に呼び戻すという目論見もあったはずである。それは昭和戦争文学全集などが出版された動きと連動していた。

肉体の門」とは小説よりも空気座による舞台の知名度が先行し、大変な人気を博したことは第一章で述べた。昭和23年(1948)のマキノ正博による最初の映画化「肉体の門」はGHQによる検閲を見越して、大幅な改訂を施され舞台版とは全く別物の映画となっていた。当時の雑誌記事にこの映画を評して「エロを期待すると肩透かしをくう」といった内容の記述がある。舞台「肉体の門」はエロの期待を満足させたが、それから16年後の再映画化となった鈴木清順肉体の門」に、終戦直後の苦いノスタルジーに誘われて映画館へと足を運ぶ観客が期待するものは、舞台「肉体の門」を食い入るように見つめていた、若き日の己との再会であったはずである。エンタテインメントを第一義とするプログラムピクチャーは、観客の期待に沿わなければならない。プログラムピクチャーの監督である鈴木清順のなすべき事は自ずとみえてくるはずだ。それは舞台では半裸で行なわれたリンチシーンを全裸とし観客のエロ期待値を上回ること、そして舞台を忠実に再現することである。もしそこに「清順美学」なるもので潤色が施されていたとすれば、彼らがこの映画を支持したとは思えない。そこにあるのは舞台「肉体の門」とは別物であるからだ。彼らは映画を見終えた後、職場や地域コミュニティで自身の戦後史を「肉体の門」を通して仲間に語りたくなる衝動に駆られた。なぜなら舞台を忠実に再現した映画を通してまざまざと終戦直後を追体験できたからだ。そのようにして観客が観客を呼んだ。映画離れしていた四十代以降の人々を取り込むことが出来たこと、それが「肉体の門」がヒットした第二の理由である。

空気座の舞台と鈴木清順の映画を比較した、同時代の映画評は全く見あたらない。それどころか主要新聞紙、映画雑誌などでは黙殺である。それは単なる裸ブームの時流に乗ったエロ映画の一本として、例えば週刊現代の「'64年を裸で稼いだ女優たち」という記事の中で野川由美子を通して言及される、といった程度である。空気座の舞台を知らない若い世代からは、次第に変なスタイルを持つ監督として、前章で取り上げた大林宣彦のように、読者投稿の中で注目されるようになる。空気座の舞台との関係を、鈴木清順に直接確認できればそれに越したことはないが、軽くはぐらかされることは目に見えている。誤読を誤読として楽しむことも映画を読む快楽の一つだ。ただ誤解しないでいただきたいのは、ここで述べているのは「肉体の門」に限定してのことであって、清順的と言われる演劇的でケレン味溢れるスタイルが、「肉体の門」にあってはそのまま「芝居の映像化」である可能性が高いのにも関わらず、その本質が忘れ去られて、「清順美学」という枠組みで簡単に片付けてしまうのは如何なものか、と提言しているだけである。

鈴木清順肉体の門」は言うまでもなく日活作品であることがヒットした第三の理由として考えられる。それは空気座による舞台「肉体の門」が初演され、秦豊吉がプロデューサーだった帝都座五階劇場を含む、新宿三丁目にあった帝都座は戦前に日活封切館として建てられたからである。(以下続く)