丸山明宏、にっぽん製シャンソンという魔界


丸山明宏(美輪明宏)が初めてマスコミに登場するのは昭和32年(1957)春のこと。同年には時の人といった勢いで新聞雑誌に取り上げられるが、翌年になると五所平之助の映画「蟻の街のマリア」で、化粧もせずに男役で出演したことが話題になったぐらいでマスコミから姿を消してしまう。再度注目を集めるのは6年後の昭和38年(1963)、全部自分で作詞作曲したプログラムを用意して、中村八大指揮のオーケストラをバックに大手町サンケイホールでリサイタルを開き「奇跡のカムバック」と言われたときだった。まるで突風のように吹き荒れた人気の渦中で書かれた記事の中に、作家の安岡章太郎が書いた「日本製シャンソン」という文章がある。「日本のシャンソン」ではなく「日本製」という固い言葉を使っているのは、安岡とほぼ同世代で映画化もされた三島由紀夫の小説「にっぽん製」からきていると思われる。安岡が三島と丸山との関係を意識してこの言葉を選んだのかは分からないが、昭和28年(1953)に発表された「にっぽん製」と同時期に書かれた男色小説「禁色」が頭にあったのかもしれない。ゴシップめいた記事でその信憑性には疑問が残るが、丸山明宏がシャンソンを歌って注目される以前に、「禁色」のモデルとなったバー「ブランズウィック」でボーイとして働きそこで三島由紀夫と初めて出逢った、という逸話もある。

それはともかく安岡の文章はブームの真只中にあったシャンソン喫茶「銀巴里」に出向き、実際に丸山に会って取材した後に書かれているから、当時を知る上で貴重な資料である。安岡は日本人がする西洋から流入したダンスや赤毛のかつらを被った舞台をみると背中がモゾモゾするそうだが、この女のブラウスを着用した男(丸山)の、身振り手振りを加えた外国の歌をクスグッたいとも思わずに聞くことができたのは初めての経験だったと言っている。それは主に「絹のズボンに胸の開いたフワフワのブラウス、ベニや眉墨で女のようにつくった顔」に毒気を抜かれたからだ、と少し照れ混じりに書いているが、言い換えればそれは扮装や化粧、歌への感情移入を含めての徹底的な自己演出に魔法をかけられたということになるかもしれない。中途半端な自己表現を見せられた時ほど、観客にとって居心地の悪さを感じるものはない。憑依という言葉がふさわしい丸山の歌唱は後年のアルバム「白呪」でも聞くことが出来る。

丸山明宏はマスコミに登場した当初から自己演出には長けていた。丸山の先輩格にあたるシャンソン歌手の高英男や宇井あきらといった男性歌手がそろって女性的(当時の流行語で言えばW型男性)といわれた中でも丸山はその徹底ぶりで抜きん出ている。白いレース付きブラウスを着用し、眉墨、目張りを入れてルージュをした口元。フランスの著名なシャンソン歌手ダミアが黒服をトレードマークにしていたように、両手を広げると白鳥の翼のようになるレース付きブラウスは丸山の代名詞だった。もうひとつの自己演出は自分のキャッチフレーズを予め用意していた事。昭和32年(1957)3月11日発行の週刊新潮コラムが丸山明宏のマスコミ初登場となるが、その時すでに「シスターボーイ」という新語が使われている。このいかにも和製英語めいた言葉はれっきとした英語表現で、「お茶と同情」という戯曲に出てくる言葉である。女性的男性( A feminine, homo-type of a male ) という意味で同性愛的ニュアンスはさほど強くはない。このブロードウェイで大ヒットした戯曲は映画化されて、丸山の記事が週刊新潮に掲載された同年の2月19日に日本でも公開されている。映画公開日と週刊新潮の発売日を照らし合わせるとわずか三週間しか経っていない。発売日よりは当然早めに入稿を終える原稿を考えるとほとんど映画公開と同時といってもいいほどで、映画のヒットによってシスターボーイという言葉が認知され、丸山明宏のキャッチフレーズとなったと考えるにはあまりに無理があるというものだ。

スターボーイというキャッチフレーズを丸山が前もって用意していたと考える理由はもうひとつある。ここに揚げる写真は「Tea and Sympathy(お茶と同情)」の原著だがこのカバーイラストが丸山明宏にそっくりなのだ。丸山が唄っていたシャンソン喫茶「銀巴里」の客層はインテリが多く、三島由紀夫をはじめ寺山修司吉行淳之介といった錚々たるメンバーが常連だったことは良く知られている。アメリカ演劇界に造詣の深いその客の中の一人が、「お茶と同情」の本をシスターボーイという言葉と共に丸山に伝えてみせた可能性は決して無いとはいえない。ではなぜシスターボーイというキャッチフレーズが必要とされたのか?それはゲイボーイという言葉を使わせないために予め用意された、と仮定して推測を進めてみたい。

男色家をゲイボーイ、略してゲイと通称することは、丸山明宏が登場する以前から知られていた。丸山がマスコミに初めて取り上げられる前年の昭和31年(1956)の雑誌「別冊知性」に掲載された「夜のゲイボーイたち」という記事によれば、ウィスキー・バーと銘打つ店がいきなり増加したことを伝えている。「女給のいないウィスキー・バーは、みな美男のボーイを置いている。美少年たちの身体を包む白いユニフォーム。あの魅力ほどゲイの触手をそそるものはないのだ。」さらにウィスキー・バーと並んで東京だけで約四十軒を数えるゲイバーについてはこのような記述がある。「薄化粧をほどこした白い顔が浮かび、隈取った眼がやるせなさげに動く」「高い背で区切られたボックスのひとつひとつには、深海が淀んでいる」
美少年、白いユニフォーム、薄化粧、隈取った眼といった丸山明宏と共通する記号が丸山登場以前にすでに軒並み揃っている。

ゲイ文化が戦後まもなくからこのように隆盛を見たのは進駐軍と深い関わりがある。パンパンやオンリーといった進駐軍相手の娼婦は映画などでお馴染みだが、男娼に関してはあまり触れられることはない。軍人は女性のいない戦地に長期間赴き生死の境を前にして共同生活を強いられる、といった極限状態から察するに、軍人に男色家が多いことは古今東西を通して一般的にいえるようだ。その進駐軍相手の男娼はパンパンの数とさほど変わらなかったという説もある。また、ゲイバーが盛んになった訳には法律的背景もある。女給が相手をするお店は風俗営業の規定により夜の十一時半閉店と決められていて、店にかかる税金も高額だった。それに比べるとゲイバーは普通飲食店で営業許可を取ると、深夜営業も可能となり税金も割安だった。昭和31年(1956)には約四十軒だったゲイバーが、翌年の昭和32年には都内で百五十軒を数えたらしい。

丸山人気のバックグラウンドにあるシャンソンブームは、丸山が脚光を浴びる前年の昭和31年(1956)から始まっている。昭和31年といえば太陽族全盛の年でもあり戦後派の象徴である太陽族に対して、どちらかといえば年齢層の高い戦中、戦前派の支持層に支えられたシャンソンブーム。唄われるシャンソンもコミカルなものは日本では全く受けず、ダミアやエディット・ピアフに代表される詠嘆的(ウェット)な歌唱が好まれた。いわば太陽族とそれを支える戦後的な行動原理への反発がシャンソンブームを支える一面としてあった。

丸山が騒がれて取材が殺到した時に、おそらくゲイボーイという言葉を使う代わりにシスターボーイという聞き慣れない新語を使うなら取材を受ける、という条件を提示したのではないか?何故なら丸山が登場した当時はゲイボーイという言葉にはまだまだ地下風俗を思わせる暗いイメージが染み付いていて、オネエ言葉がテレビを通して飛び交う現代との大きな違いはそこにある。ゲイボーイが持っているアンダーグラウンドな出自と、日本人受けするシャンソンの持っている暗くてウェットな部分とが手を結び、たやすく風俗現象の一断面としてマスコミに料理されてしまうことが、頭のいい丸山には分かっていたに違いないからだ。「シャンソンを唄うゲイボーイ」というキワモノ的なレッテルを貼られるのが目に見えていたからこそ、シスターボーイというキャッチフレーズを編み出し、目立つためのゲイボーイ風ファッションとのバランスを計算していたのだと思われる。昭和33年(1958)に男の格好で映画「蟻の街のマリア」に出演した際も、全ては演出ですとの言葉を残しているが、昭和38年(1963)のリサイタルでのカムバック、そして2年後の昭和40年(1965)、「木島則夫モーニングショー」にて初めて「ヨイトマケの唄」の歌を披露し、翌年の大ヒットにつながるまでの道のりは、やはり思っていたよりは長くかかってしまったようだ。

丸山明宏が時の人となった当時の全ての雑誌記事に目を通してみたが、丸山をゲイ文化と結びつける記述やゲイボーイの呼称は週刊誌等の匿名記事には一切出てこない。ただし署名記事にはひとつだけ言及しているものがあった。匿名記事には無く署名記事には有る、つまり署名記事は責任の所在を明らかにしているので丸山の抗議を受けた場合は個人的に受けて立つ、という覚悟で書かれている。無署名の場合は掲載された雑誌が責任の対象になるから、あらかじめ丸山に記事内容を打診してチェックを受ける場合が多い。シスターボーイのキャッチフレーズはこうした場を通しても丸山側から要請されたのではないかと考えられる。ところで安岡章太郎の文章にはゲイ文化への言及はおろかシスターボーイという言葉さえ登場しない。さすがに文学者だけあって自分の言葉で丸山明宏を的確に表現している。曰く、女装の「怪男子」。(筆者注=「爽快」の快ではなく「妖怪」の怪。)