働く女性〜モダンガールからOLまで


働く女性いわゆる職業婦人のことが最初に雑誌記事になったのは、大正12年(1923)に雑誌「婦人画報」に掲載された記事である。大正12年に完成したばかりの丸ビル(建て替えられる前の旧丸ビル、場所は同じ東京駅の丸の内口)のオフィスで働く新しい女性たちを「丸ビル小町」と称して紹介している。この記事が書かれた数カ月後、関東大震災が発生し丸ビルは倒壊こそ免れたものの開業早々大補強と修繕を余儀なくされる。丸ビルは地下一階、地上九階建ての三菱所有のオフィスビルで、ここで働くサラリーマンは五千人(その内の二割は女性)。一日の出入人員が十万、東京駅の一日の昇降客が十四万だから東京駅の昇降人数の七割が丸ビルに出入りしている計算となり、東京駅は実質上丸ビルの玄関といってもいい(昭和12年当時の記事による)。

震災翌年の大正13年(1924)に初めてモダンガール(近代女性)という言葉が雑誌の見出しに登場する。震災でやられた丸ビルや銀座界隈も徐々に復興を遂げ、丸ビルに代表されるオフィスビルに勤務する近代的職業婦人を「丸ビル小町」から「モダンガール」へと呼称を変えて紹介している。現在ではモダンガール(モガ)というとそのファッションにばかり言及されることが多いが、第一義的には職業婦人を指す言葉で洋装、ショートヘアといったモガスタイルは和装に比べて活動的で働きやすいからに他ならない。昭和4年(1929)に公開された溝口健二「東京行進曲」の同名主題歌に「恋の丸ビル」として歌詞に登場する頃には、モガという新語もすっかり定着しカフェのウェイトレスや丸ビルに勤める職業婦人を総称して銀座文化を象徴する流行語となった。

上の写真は雑誌「文学時代」昭和6年(1931)に掲載された「女性職業の尖端を行く」というグラビア記事で、美容師以外は全てにガールがつくのはモダンガールが職業婦人の意味で使われたことの流れを汲むものだろう。これは戦後になってOL(オフィスレディ)に取って代わるまで「〜ガール」という呼称は長く続いた。ちなみに美容師として紹介されている女性はあの吉行あぐりである。

昭和20年(1945)に終戦となり世情も落ち着いてきた1950年代に入ると職業婦人に対してサラリーガールという言葉が使われ始めた。最初に週刊誌の見出しで登場するのが昭和27年(1952)。「東京行進曲」とおなじ西条八十作詞による「女給の唄」では女給を酒場の花に例えているが、職場の花と言われたのがサラリーガール。職場の花といえば一見聞こえは良いが、「花の命は短い」の例えのように結婚して寿退社し専業主婦になるのがごく当たり前の時代。会社も女性に対してお茶くみや電話応対といった雑務以上のことは期待せず、またほとんどの女性も会社でキャリアを積んでステップアップすることなど考えもしなかった頃である。これに対して同じサラリーガールの中でも日本橋兜町の株式市場で働く女性に対して「兜町のBGたち」としてビジネスガール(BG)という呼称を初めて使ったのが昭和32年(1957)のこと。丸ビルで働く先端的職業婦人をモダンガールといったように、ビジネスの最前線で働く大卒女性をサラリーガールの中でも特にビジネスガールと呼んだことは、丸の内と兜町が地理的にも極めて近いことも含めて興味深い。

当初はビジネスガールをひと頃流行ったキャリアウーマンのような意味で使ってサラリーガールと差別化していたものが、サラリーガールという言葉が次第に廃れてゆき、働く女性を総称してBGと呼ぶのが一般的となるのは、オリンピックの東京開催が決定した昭和34年(1959)の頃である。5年後の1964年の開催年に向けた急ピッチの都市開発で東京が大変貌を遂げた事はよく知られている。国立競技場、国立代々木競技場、駒沢総合運動公園(当時の呼称)の建設とそのエリアを結ぶ高速道路網の整備。北京五輪の時に胡同(フートン)に面した伝統的建造物、四合院住宅に住む住民の強制撤去と建造物破壊のニュースはたびたび目にしたが、東京五輪のときに行われたこともそれと大同小異である。

都市開発と共に問題にされたのが、いまだかつて日本が経験したことがない無い大人数の来日が見込まれる外国人観光客のための日本語ローマ字表記(訓令式/ヘボン式)をどうするかということだった。駅名や道路標識あるいは京都、日光などの代表的観光名所には日本語ローマ字表記が欠かせない。ローマ字表記と関連するもう一つの問題は、公用語化したジャパニーズイングリッシュを使った看板や会話が、無用な誤解を外国人に与えることを未然に防ぐ、というもの。そこで目を付けられたのがBGことビジネスガール。直訳すれば商売女となる「商売」が何を意味するかは英語圏でも同じだったようで、NHK放送用語委員会がオリンピックの開催される前年の昭和38年(1963)にいち早く放送禁止用語とした。もっともNHK放送禁止用語にしたからといって直ぐにBGという言葉が消滅したわけではなく、昭和42年(1967)まで雑誌の見出しでは使われていた。その同じ年に雑誌「女性自身」で初登場したのがOLことオフィスレディ。それ以降はもっぱらOLが働く女性の代名詞となった。

ビジネスガールに代わって登場したOL(オフィスレディ)のガールからレディへの変化は、オリンピックの2年前、昭和37年(1962)に封切られた「その場所に女ありて」の司葉子がオフィスで働く新しいレディ像として先取りしているし、東京オリンピックの狂騒が終わった同年の12月に公開された、当時人気の絶頂期にあったヘップバーン主演の「マイ・フェア・レディ」が、レディという言葉への憧憬の種をまき、ガールからレディへの変化をスムーズに後押しした気がする。