安田南がいた時代(3)〜「抱かれる女」から「男を抱く女」へ

安田南が最初に雑誌に取り上げられたのは、昭和44年(1969)10月号の「主婦と生活」であった。「平凡パンチ」や「プレイボーイ」などの男性週刊誌ではないのがやや意外な感があるが、タイトルが「あなたはどう思う?“セックス”と“家出”と“女の幸せ”」と題する手記形式の記事で、記事の最後は安田南の考え方に対して読者の意見を編集部宛に募る、という問いかけで終わっている提言記事である。「何人もの男と同棲を繰り返し、平気でセックスを語る現代女性である」とこの記事のリードにあるように、安田南はマスコミ初登場の時点から性的に奔放な女というイメージが付いて回った。このイメージを決定づけた、と思われるのがこの二年後に書かれた、瀬戸内晴美(寂聴)の「安田南〜この華やかなる放下流浪〜」というエッセイで、「現代俳優論」というシリーズの30回目であった。執筆者は毎回異なり、取り上げられた俳優は他にカトリーヌ・ドヌーブ唐十郎立川談志などで、知名度の点から見ても安田南を扱ったこの回は異色だった。このエッセイによって初めて安田南を知った人も多かったのではないか。しかも掲載誌が安田南とは何かと縁がある「朝日ジャーナル」1971年4/9日号である。

瀬戸内晴美が安田南について書いたエッセイが掲載された1971年4/9日号というのは、「朝日ジャーナル」にとっても分岐点のような時期にあたる。4/9日号の三週前にあたる、外人女性のヌードを表紙に使った3/19日号が、赤瀬川原平の連載マンガ「櫻画報」最終回の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」が新聞協会筋からクレームが入り、当該号の自主回収騒動となる。その後、関係者の処分、5月の大幅な人事異動へと発展する変動期の只中での掲載だった。自主回収に関しては具体的な説明が朝日新聞社からなかったため、クレームという外圧の形をとった、三里塚闘争支持や新左翼寄りの記者を一掃する狙いがあった、ともされている。5月の人事異動によって「週刊朝日」から「朝日ジャーナル」へと配置換えされたのが川本三郎である。したがって、瀬戸内晴美によって書かれた「安田南〜この華やかなる放下流浪〜」の担当編集者は川本三郎ではないが、彼がこのエッセイを読んでいたのは言うまでもないであろう。中津川フォークジャンボリーの開催はこの年の八月であるから、川本三郎には予めこのエッセイによって得た「安田南」像がインプットされていた、ということになる。

「安田南〜この華やかなる放下流浪〜」は三つの小見出しがあり、それぞれ「虚無と生気」「天衣無縫」「権威も及ばず」となっていて、このエッセイを要約する的確な表現となっている。以下に印象的な部分を抜書きしてみる。

最初彼女をつれてきた青年は一見おとなしそうな顔や体つきのくせに、相当タフな女たらしとして自他共に認めていた人物だったが、その彼が、こんなチャーミングな女の子見たことがないと絶賛して前宣伝していた。ベッドでの彼女が最高にシックで、その前後の雰囲気もまた日本人離れして抜群であるというのである。しかし、彼につれられてきた彼女は、大きい目玉をぎょろっとさせ、短いざんぎり頭に、化粧ッ気もない、身長ばかり育ちすぎたガキにすぎなく、女としての魅力などどこにあるのか、とんとわからなかった。無口でほとんど笑わない。手と足の美しさだけを印象に残して、彼女は去っていった。

二ヶ月足らずのつきあいで例の青年は南からふられてしまった。「彼はとても上手だけれどそれだけなんだもの。南、あれが下手な人は厭だけれど、そればっかりでも退屈しちゃう」。南の語るふった理由だった。その青年以来、私は南の目下の恋人とか、フィアンセとか、同棲中の男とかいう名目の人物を十指に余るほど見せられている。自分は大柄なのに彼女の相手はいつも小男かやせっぽちなのが共通していた。

ズベ公でもフーテンでもない。つきあった男(もちろんセックスで)は七十人だとか八十人だとかケロリとして口にしているけれど、色情狂でもない。横で見ていると、ちょうど靴でもはきかえるように男を変えているだけの話だ。

「ズベ公でもフーテンでもない」のに性的に放恣だ、という記述はこのエッセイが書かれた1971年という時代を象徴している。性的放恣はこれまで常にズベ公やフーテンなどの「不良」の専売特許だったものが、男に反旗を翻しアクチュアルに生きる現代女性のイメージとしてパラダイムシフトされたのがこの年の前年にあたる1970年からだった。それはこの時代に台頭してきたウーマン・リブという女性解放運動の俗流解釈として、当時のマスコミによってもっとも広められ浸透したイメージである。いわゆる「抱かれる女」から「男を抱く女」への変換であった。女の側からみたセックステクニックを初めて図解で見せた雑誌「微笑」の創刊が71年だったし、「私生児」という終戦直後の冥い記憶が染み付いた言葉から、私生児を生む女の意志を感じさせる「未婚の母」という言い換えが積極的になされたのも71年からだった。桐島洋子加賀まりこ緑魔子らが未婚の母という名のヒロインとして女性週刊誌を賑わせた。

安田南と同じ1943年生まれで、ウーマン・リブ運動の日本における先駆的指導者として知られる田中美津が書いた「田中美津、『1968』を嗤う」という文章がある(「週刊金曜日」2009年12/25日号に掲載)。『1968』は慶大教授の小熊英二による全共闘運動を分析した大著で、その17章がウーマン・リブ田中美津について論じられている。「田中美津、『1968』を嗤う」は田中美津がその17章における自分自身に関しての記述における「誤読と捏造」について詳細に指摘した文章である。その中で小熊英二が、喫煙者でもない田中がタバコをふかしていた、と記述している部分に対して、田中自身はこう分析している。

二十七歳の「オールドミス」のフリーターが、あぐらをかいてタバコをふかす。小熊氏が描く「私」って、70年代にマスメディアが作り上げた、男に反旗を翻す女の悪イメージそのものだ。

「あぐらをかいてタバコをふかす」という行為が、マスメディアの俗流解釈によるウーマン・リブのアイコンとなって不当に押し付けられている、と田中は書いているが、「あぐらをかいてタバコをふかす」はそのまま安田南の一般的イメージといってもいい。「Some Feeling」のアルバムジャケットはあぐらをかいているわけではないが、それに近いバリエーションであることは確かだ。しかも27歳という年齢と未婚であること、定職についていないところまで田中と安田は同じである。しかし安田南はウーマン・リブ的であろうとしてタバコをふかしたわけではないし、性的放恣をウーマン・リブ的に実践したわけでもない。もしも仮に安田南がウーマン・リブについての歌を唄うなり、文章でアジテーションしていたならば、間違いなくリブ界の岡林信康になっていたはずだ。しかしそうはしなかった。またウーマン・リブ運動に積極的にコミットしようとしたのでもなかった。

ところで「抱かれる女」から「男を抱く女」への変換を初めて提言したのが、他ならぬ川本三郎が在籍していた時代の「週刊朝日」だとしたら、あまりにも出来過ぎたお話だろうか?70年代のウーマン・リブ運動を最初に紹介したのは「週刊文春」1970年9/11日号で、「性の政治学」の著者であるケイト・ミレットがたまたま日本に留学経験を持ち、夫が日本人であったことから、ウーマン・リブ運動そのものではなくケイト・ミレット本人に関する記事であった。「全米ウーマンパワーの指導者は日本人の妻」というタイトルで、この記事ではまだウーマン・リブという言葉は使われておらず、「ウーマンパワー」とされていた。

英語ではWomen's Liberation 略して Women's Lib(ウィメンズ・リブ)となるところを、日本語として発音しやすいようにウーマン・リブとして、初めて雑誌記事のタイトルとして使ったのが「週刊朝日」1970年11/13日号で、ここに掲げたのがその表紙である。少女モデルは保倉幸恵で、映画「マイ・バック・ページ」では忽那汐里が印象的に演じた。保倉幸恵は1975年に22歳の若さで自殺している。積み上げられた本の中には三島由紀夫暁の寺」(三島事件は今号が発売された直ぐ後の11月25日)、ソルジェニーツィンの「ガン病棟」、沼正三家畜人ヤプー」、羽仁五郎「都市の論理」が四冊並んでいて、これは川本三郎の所有している本ではないか、と思われるほどだ。ウーマン・リブ座談会『「抱かれる女」から「男を抱く女」へ』は雑誌ロゴのすぐ下にあり、文字の大きさからみてもこの記事がトップ記事であった。この座談会には田中美津(ぐるーぷ・闘うおんな)も参加している。

川本三郎の著書「マイ・バック・ページ」で触れられているわけではないが、このウーマン・リブ座談会が川本による企画ではないのか、と思われる理由は以下に挙げる三つである。まず第一にウーマン・リブは米国が発祥の地であることで、アメリカのカウンターカルチャーに精通していた川本にとっては、もっとも得意とする分野であること。二つ目はこの座談会の司会が、なだいなだであることで、ウーマン・リブ運動にとって避けては通れないセクシャリティの問題について、精神科医と作家の肩書きを持つ、なだいなだに司会を依頼するという着眼点に川本三郎らしい見識を感じること。そして最後は座談会の中で、ウーマン・リブ学生運動との関わりについて話し合いがなされていることである。ウーマン・リブ運動を日本でいち早く取り上げた仕掛け人が川本三郎だとすれば、瀬戸内晴美のエッセイによって描かれた「安田南」像こそ、「抱かれる女」から「男を抱く女」への変換をいち早く体現する日本人女性として、川本の眼にはうつったに違いない。ロック好きの川本が箱根アフロディーテではなく、八月の同時期に開催された中津川フォークジャンボリーを取材先に選んだのは、最初から安田南が目当てだった可能性もある。

「天使の恍惚」には二人の女性兵士が登場するが、セックスシーンにおける二人は共に、男に抱かれるというよりは男を抱いているように見える。その視点にたてば例の背中合わせのセックスシーンも、男が上になる正常位ではなく、男女ともに相手を抱くという対等関係をシンボライズしているともいえる。朝霞自衛官殺害事件のKが創設した赤衛軍にも二人の女性がいたが、赤衛軍が当時の週刊誌でシャロン・テート事件で有名なマンソン・ファミリーに例えられたように、Kのカリスマ性に魅せられた従属的な関係だったようだ。足立正生が「天使の恍惚」に登場する二人の女性を、男性と対等な立場として設定したことは、荒砂ゆき演じる「秋」は重信房子として、また横山リエ演じる「金曜日」は「安田南」として、二人ともにマスメディアが作り上げたウーマン・リブの文脈の延長線上にある、「男(=男によって支配された国家権力)に反旗を翻す女のイメージ」の具象化のような気がしてならない。そして安田南が役を降りたもう一つの理由がおそらくそこにある。それは安田南が「平和」とか「夜明け」とか「自由」などの言葉に満ちた、当時隆盛を極めたいわゆるメッセージソングを決して唄わなかったことと繋がっている。

安田南がいた時代(2)〜安田南とイメージとしての「安田南」

安田南遁走のゴシップは同時代の映画雑誌ではどのようにあつかわれたのか。例えば「映画評論」という雑誌は「少年マガジン」や「朝日ジャーナル」と並んで、全共闘世代には最も読まれていた映画雑誌である。ひなびた商店街の片隅にひっそりとある、昔ながらの古本屋に、今でも1970年前後のバックナンバーが埋もれていたりするのはそのためであるが、その中に「ゴシップ・サウンド」というコラムがあり、編集長である佐藤重臣自らが、新宿ゴールデン街などの人脈を通して拾ったネタや、業界こぼれ話などが面白おかしく書かれていて、硬派な映画論が居並ぶ中で異色の息抜き的なコラムだった。また雑誌「映画評論」は若松孝二を最も初期からフォローしていたことでも知られていた。ところがこの「安田南が途中降板し若松孝二から五万円持ち逃げ」という、ゴシップとしてはこれ以上にない題材が、このコラムでは一切扱われていないのだ。このことは次に挙げる二つの憶測を呼ぶ。まずこのゴシップが単なる遁走劇ではなく、シャレにならない深刻な事情を孕んでいるのではないかという事と、若松孝二が安田南に対する怒りの会見をした直後に真相が明らかとなり、金銭的な問題もこじれることなく解決したのではないか、ということである。雑誌「映画評論」は週刊誌と違って月刊であることから、入稿の締め切りまである程度の時間的な余裕があるが、もし若松孝二の会見から解決までの時間が長引いていたとすれば、「ゴシップ・サウンド」の恰好の餌食となっていたはずなのだ。事の真相がすぐに明らかとなり、その事情が深刻だったからこそコラム「ゴシップ・サウンド」では扱われなかったのだと思われる。ちなみにキネマ旬報にもこの件は書かれてはいない。

このゴシップを取り上げた雑誌は前章でもふれた通り、確認できる範囲では「週刊平凡」と「週刊文春」のみであった。週刊文春の記事は以下のような書き出しで始まる。

映画の主演女優が、作品の凄さに恐れをなしてか撮影のまっ最中に遁走した。安田南。聞かぬ名だが、若松孝二がATGと提携して製作する1,200万円の“超大作”、「天使の恍惚」に出演させるため、新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ(そうは見えぬが)だったらしい。

ここでいうタマとは時代劇などでよく使われる上玉の「玉」と同じく美人の意で、この記事に添えられた写真がここに掲げた写真である。カッコ付きで(そうは見えぬが)と但し書きが付いているのは、この記事を書いた記者が若松プロから提供されたこの写真を見ての感想であるから、タマ(美人)という言葉とそれにかかる「新宿で見つけて女優に仕立てようとした」は記者の言葉ではなく、若松孝二自身の発言からとられたことがわかる。「新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ」という物言いは、せっかく女優に仕立てようと思ったのにお金を持ち逃げされた、という忌々しさとともに、「仕立てようとした」という言い方が妙に引っかかる言い回しだ。それは横山リエが演じた役は、あらかじめ安田南を想定して書かれ、そのことによって安田南を女優に仕立てようとした、ということの表明ではないのか。この「女優に仕立てようとした」という表現が持つ違和感は、足立正生が「天使の恍惚」における安田南との繋がりと、それに絡む中平卓馬の関連性を、ことさら無かったかのように説明する不自然さと地続きになっている。この点の確認作業に入る前に、まず手始めとして、撮り直したとされる「天使の恍惚」の映像を検証することから始めてみたい。

週刊文春に掲載された写真の安田南は髪が随分と長く、「天使の恍惚」出演時の横山リエの髪型と似ていて、横分けのショートといういつもの安田南の定番スタイルとは違う。週刊文春のいうように「二十分にわたるリンチとベッド・シーン」が撮影され、彼女の遁走によって撮り直しを余儀なくされたとするならば、撮り直しをするシーンは予算や時間の関係からいっても最小限度に留めるのは当然だろう。つまり横山リエが写り込むショットだけを撮り直し、残りは安田南の撮影時に撮られたショットと繋ぐ、ということだ。そのあたりのノウハウは撮影日数や予算の限られたピンク映画で若松孝二が培ってきた経験と実績がある。横山リエが写っているショットとそれ以外のショットに食い違いが見つかれば、撮り直しがされたことの証明となる。

リンチの場面は一度しかないから直ぐにどの場面か特定することができる。冬軍団二月組が金曜日(横山リエの役名)の部屋を急襲し、横山リエをリンチして、部屋にある爆弾の隠し場所を白状させる場面である。若松孝二の映画では人件費節約のためにスタッフがチョイ役で紛れ込むことがよくあるが、この映画もその例に違わず、冬軍団二月組の一人として足立正生が登場する。向かって左側の場面の足立正生は、ボタンが隠れる内ボタンの上着を着用し、襟元からは白いTシャツらしきものが見える。また、ベッドシーツがめくれていてマットレスの花模様が見えている。それに対して右側の同じ場面での足立正生は、ボタンの見えるカーディガンと黒っぽいシャツとを重ね着していて、襟元はよく見えない。またベッドシーツは乱れておらず、花模様は見えていない。したがってこの場面は時間を隔てて撮り直しされたことが分かる。二つの場面とも横山リエが写っているではないか、と思われるかもしれない。しかし左側の場面では、女性の後ろ姿しか見えておらず、誰なのか特定できない。それに対して右側の場面では、リンチに苦悶する横山リエの横顔がはっきりと見える。映画では後ろ姿の女性と、正面から捉えた半裸の横山リエのショットを交互にカットバックして、後ろ姿の女性が横山リエだと直ぐ分かるように編集されている。しかし、右側のシーンは撮り直しされていることから、後ろ姿の女性とそれを含む場面は、撮影済みのショットの流用である、と考えていい。つまりこの後ろ姿の女性は安田南である、と問題提起を含めて敢えて断言してしまうこととする。映画を見ていただければお判りになると思うが、後ろ姿の女性は顔が判別できないまま、ビンタを受けたりしていて時間的にかなり長く、フィルムでいえばフィート数がある。流用できる部分があれば、これを顔が判らないまま横山リエであえて撮り直す必要性は全くないのだ。

次に安田南が演ずる予定だった「金曜日」という役柄に、どの程度、「安田南」像が投影されているのかを考えてみたい。それを考えることによって「天使の恍惚」と「安田南」との関連性が高いか、低いかが浮かび上がるはずだ。ここで安田南をカッコ付きで表記したのは「安田南」という、足立正生によって創造された「イメージとしての安田南」という意味で、それは彼女を語る上でよく使われる「伝説」という形容が似合う「安田南」のことである。

極めて当たり前の事だが、まず第一に「金曜日」がクラブ歌手として設定されていることがあげられる。特に終盤近く、車ごと自爆する前に、約6分間に渡って「ここは静かな最前線」を唄う、とっておきの「歌手としての見せ場」が用意されている。音楽映画でもない映画で、6分間も続く歌唱のシーンがある映画はちょっと他に前例がないのではないか。しかも、高度に演劇的な歌い方を要求されていて、その後に「最前線に行かなければ!」というセリフと共に、車のフロントガラス越しに見える国会議事堂がインサートされ、モノクロからカラー画面となって、富士山の前で車ごと自爆するという「演劇的な死」へと連なる序曲のような歌だ。横山リエも悪くはないが、やはり6分間はあまりにも長く、演劇的な歌唱法をこなし切れていない。「天使の恍惚」のサウンドトラックCDに収録されている、「ウミツバメ Ver.Ⅱ」の安田南の唄を引き合いに出すのは横山リエに対して申し訳ないが、やはり雲泥の差がある。「演劇センター68/71」などの芝居において歌姫だった安田南だからこそ可能なシチュエーションである、といえるのではないか。

二番目にあげられるのは、「金曜日」の伝法な口のきき方である。これはもう一人の女性兵士、「秋」こと荒砂ゆきの落ち着いた口調との落差が大きく、その鮮やかな対照によって「金曜日」の勝気な性格が引き立つようなシナリオとなっている。「壊せ、壊せ、全部壊せ」「何が日和見だ、根拠を言え!」「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」などのセリフであるが、特に小野川公三郎演じる「土曜日」に対して云う、「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」というセリフは強烈だ。「土曜日」は他のメンバーからも子供扱いされているが、それは彼が「半ドンの土曜日」と云われているように、理論が先行して行動が伴わない学生活動家だからであろう。「半ドン」という言葉はいまや死語だが、土曜日は半日だけ、という学生生活と、半人前との両方の意味を兼ねている。「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」は「土曜日」に爆弾を手渡しながら横山リエが云うセリフで、理論をわめくだけの学生に対してもっと主体的に実践活動してみろ、という啖呵だ。

このセリフで思い出されるのが、安田南が中津川フォークジャンボリーでコンサートを妨害する学生に言い放った「テメエら甘ったれるんじゃねえよ!」である。親の仕送りで生活していながら、一人前に「資本主義に侵されたコンサートを粉砕する」などとわめいている学生連中に対して云った言葉は、川本三郎にも強烈な印象を与えたように、その場に居合わせた学生や若い世代(それは「天使の恍惚」の観客でもある)のクチコミによって半ば伝説化していったと思われる。それがあるから、「やりたいトコをやりゃぁいいのさ、じゃあね子供!」は安田南によって云われるべきセリフとして書かれたのではないか。安田南=勝気で言いたいことははっきりと言う、と思われている本人が「金曜日」として発言するからこそ、このセリフがより生きてくる。

三番目はやや情緒不安定気味な態度と馬鹿笑いである。安田南の馬鹿笑いに関しては本人がエッセイで触れているので引用する。

(気まぐれ飛行船が)スタートして、いつのまにか二年半あまり経ってしまったことに気づく。いくぶんは上達したといえば……ただ会話のあいまに安心した馬鹿笑いを時折さしはさむようになったくらいかな。前後がおどおど自身なげな小声で、突然大声で笑ったりするものだから、寝ている家人や隣近所に気兼ねしてヘッドホーンで聴いている人を、そのたびにびっくりさせてしまう。この無意味ともいえる馬鹿笑い、照れであったり、何も言わないよりせめて笑ってもみたりした方が、いいのじゃなかろうかだったり、なんとも言いようがない時の精一杯のゴマカシであったりするのだが、それにしても、まったくらちもないことだ。

このDJにあるまじき馬鹿笑いや、その場の感情に流された、計算されていない自然な感情の発露が、ラジオ番組「気まぐれ飛行船」の人気を支えるものの一つであったことは、多くの聴取者の証言するところだ。「天使の恍惚」の横山リエは、突然突拍子も無い歌をわざと音痴に唄ってみたり、馬鹿笑いや目線を泳がせたりして戯画的に演じてみせているが、やはり演技が見えてしまっているようなぎこちなさが残る。安田南が「安田南」を演じたらどうだったのだろうか。

最後はやはりなんといっても「金曜日」という役名であろう。吉澤健をリーダーとする10月組はメンバーがそれぞれ曜日名で呼ばれている。曜日は太陽系の星の名前から採られていていることは言うまでもないが、シナリオでは星が持つ象徴的な意味をある程度、役柄に反映させていることは明らかだ。例えば「月曜日」と呼ばれる男は、月=狂気であり、一人で破滅的な行動をとる。「土曜日」は土星であり、曜日名で使われている星の中では最も太陽から離れた星であることによって、他のメンバーとは遠くに位置する異質な存在=子供(学生)であることが示されている。占星術的にいえば土星は試練と結びついていて、「土曜日」が爆弾を手にして街中に飛び出していくことが、子供から大人への成長という試練を乗り越える寓意となる。そして「金曜日」といえば金星=ヴィーナス(美の女神)である。更にもうひとつコジツケついでにいえば、スチールでも有名な背中合わせのセックスシーンも、金星だけが他の星と違って逆方向に自転しているということのアナロジーといえなくもない。60年代末から流行した、セックスを媒介とした宇宙的なサイケデリック幻想の残影も感じられる。足立正生にはその名も「銀河系」という夢想的な代表作があるから、曜日名と星との関連を結びつけて、観念のお手玉遊びをしたとしても不思議ではない。

ここまで検証してきたように、「天使の恍惚」における「金曜日」が安田南を想定して書かれたことが確かだとすれば、冒頭でふれた週刊文春の「新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ(美人)」という、若松孝二の発言がにわかに現実味を帯びてくる。ところが安田南は五万円を持って遁走してしまった。それは川本三郎が絡む朝霞自衛官殺害事件の余波だけが理由だったのであろうか。それなら彼女が残したとされる置き手紙に、それなりの理由を書き残すとかしたはずで、それがなかったからゴシップ騒ぎとなった。もっともそれが出来ないからこそトラブルメーカーと呼ばれたのかもしれない。彼女のエッセイにこうある。

もし自分の専属のコンボ・バンドを持つなら「安田南とトラブル・メーカーズ」はどうだと言われるくらい、行く先々で問題の種まきをしてしまう結果となる。

週刊文春によれば置き手紙には「内容がよくわからないし、思想的にあわない」とあったようだが、これが遁走のための単なる方便だったのではなく、むしろ本音と思えるのは、安田南は「安田南」を演じることにウンザリしていたからではないのか。それは安田南のデビューからの足跡を辿ることによって明らかになる。

安田南がいた時代(1)〜「天使の恍惚」と「マイ・バック・ページ」


写真映りが悪い、と云われる女性がいる。活き活きとした表情の動きや何気ない仕草などはとても魅力的なのに、その一瞬を捉えた動きのない写真では、その美しさが魔法のように消えてしまうのだ。さしずめジャズ歌手の安田南などはその代表といってもいいだろう。とはいっても安田南のことを直接知っているわけではないし、何度もライブに足を運んだわけでもない。たった一度だけ公園通りの山手教会地下にあった渋谷ジャン・ジャンで、山本剛トリオをバックに従えたライブを観ただけだ。こちらはまだ高校生気分の抜け切らないほんの青二才だったが、安田南は成熟した女性としての存在感が圧倒的で、彼女の醸しだすあまりにもセクシャルな姐御風情と、幼稚な私との落差は、安田南が歌っているほんの数メートル先のステージと、観客席にいる私との間にある、埋めようもない底無しの奈落のようなものとして感じられた。いま残されている安田南の写真を見ても、あの時に感じた惨めさと共に、心地よくもあった敗北感のようなものが蘇ってこないのは、安田南の写真映りが悪いせいであろうか。しかしわずかながら例外もある。それは一時期、彼女と恋人関係にあった写真家、中平卓馬が撮影したもので、アルバム「Some Feeling」のジャケット表裏に使われた二枚の写真である。それは70年代に最も先鋭的であった写真家が、恋人を被写体に選んだからこそ撮ることが出来た一瞬の奇跡なのではないか、と思われるほど魅力的だ。それにつけても彼女が活き活きと歌っている映像が残されていないのはいかにも残念だが、そのことで思い出されるのは映画「天使の恍惚」主演降板の顛末である。それは未だに謎に包まれたままだ。

「天使の恍惚」は原題を「天使の爆殺」といい、その原題通り過激派による爆弾闘争を扱った映画である。「天使の恍惚」公開二年前にあたる昭和45年(1970)3月に発生した赤軍派による「よど号ハイジャック事件」以降、それまでは主に学園闘争が中心だった全共闘運動の一部セクトが、より先鋭化して武力闘争による爆弾テロ事件が頻繁に起こることとなる。中でも「天使の恍惚」公開直前の昭和46年(1971)12月24日におきた「新宿クリスマスツリー爆弾事件」は、クリスマスツリーに見せかけた爆弾の置かれた場所が四谷署追分派出所であったことから、「天使の恍惚」上映反対の恰好の口実とされた。というのはここに挙げた新聞記事とその地図を見ても明らかなように、四谷署追分派出所は「天使の恍惚」が上映される予定の新宿文化(新宿アートシアター)の目と鼻の先にあったからである。当時のキネマ旬報で「日本映画縦断」という連載記事を書いていた竹中労によれば、この上映反対運動を演出したのは桜の代紋(警察)と毎日新聞であった。毎日新聞はこの「新宿クリスマスツリー爆弾事件」がおきたすぐ後に、「こんな時に無差別テロ映画」という製作中止キャンペーンを張った。この記事は新宿アートシアターのある地元商店会(竹中によればこの背後にも警察権力がある)による上映反対運動を後押ししたし、また警察は警察で東宝やatgの映画館まで嫌がらせをした。足立正生の著書「映画/革命」によれば、「怒った右翼が来て映写機に砂をかける」とか「怒った過激派が映画館に爆弾をしかける」という二つの殺し文句で脅かして廻った、とある。

そんな経緯がありながらも、若松孝二監督の映画「天使の恍惚」は若松プロとatgの提携作として、昭和47年(1972)3月11日に東京では新宿文化のみで封切られた。封切当日も連合赤軍による、同志に対するリンチ殺害事件が明るみとなり、その記事が朝刊トップを飾るという最悪のタイミングであった。藤田敏八監督「八月の濡れた砂」が併映作として再映され、atgの東京におけるもう一つの拠点である、有楽町の日劇文化は東宝が映画の内容に怖れをなして手を引いたために、ピーター・フォンダ監督主演の「さすらいのカウボーイ」を上映していた。新宿文化での上映も危ぶまれたが、上映中止にならなかったのはこの映画のプロデューサーであり、新宿文化の支配人でもあった葛井欣士郎の尽力による賜物であった。

安田南はこの問題の映画「天使の恍惚」で横山リエが演じた役に当初キャスティングされていた。またこの映画のスチルも安田南の恋人であった中平卓馬である。この事情を足立正生は前掲した著書「映画/革命」の中で次のように語っているので、その一部を引用する。質問者の「“天使の恍惚”のスチールは中平さんですが、足立さんが頼まれたんですか?」との問いに対する回答である。

それもあるけど、主人公役に安田南さんが上がっていて彼女のオーディションにくっ付いてきた。じゃあ、スチールは中平さんだと決まった。第一回目の顔合わせやテストを兼ねて、ポスター用の写真を撮ろうということになった。(中略、全員がぐるぐる走り廻るシーンを撮影することとなる)全部スローシャッターで撮っているから、結果はわかっていた。俳優さんの誰が誰かもわからない。走り抜けるだけの人影の流線型が無数に交差したものが出来上がった。写真としてはなかなか素晴らしいが、これだけではポスターにならないと判断された。(筆者注=70年代初頭の中平卓馬は、ブレやピンボケを意図した作風で知られた)若松さんは機嫌が悪く、安田さんは芝居出来ないことが分かったから降りて貰うしかない、しかし、その前に滅茶苦茶を続ける中平さんをたたき出してくれ、と悲鳴を上げていた(笑)。

この発言に矛盾があるのは、安田南はオーディションで採用したにも関わらず、若松孝二は「安田さんは芝居出来ないことが分かったから降りて貰うしかない」と発言した、とされていることだ。芝居が出来ないならオーディションの段階で落とされているはずである。またこの発言の前に、足立の著書「映画/革命」には中平卓馬について「共闘」という言葉を使い、「天使の恍惚」以前から深い人間関係があったことを語っている。引用した足立の発言では、安田南は中平卓馬とは関係のないオーディションで決まり、それにくっ付いてきたからスチールが中平となった、とされているが、足立と中平との関係を考えれば、オーディションなどではなく中平の推薦で安田南が採用された、と考えるほうが自然ではないのか。安田南を介して、以前から共闘関係にあった二人が偶然に出会う、というのはいかにも下手な作り話めいている。

こう考えるのには理由がある。足立の著書「映画/革命」は平成15年(2003)に出版された本であり、この本で足立は若松孝二の方から安田南に引導を渡したかのように語っているが、「天使の恍惚」が公開される前年の昭和46年(1971)暮れに発売された週刊誌には、これと正反対の事柄が書かれているからだ。スキャンダリズムを信条とする週刊誌とはいえ、時間の経過というバイアスがかかっていないからこそ見えてくるものもある。それは雑誌「週刊平凡」と「週刊文春」で、5万円とか、フィルム2,000フィート等の数値が一致することから、記者を集めた公式の場で若松孝二本人の口から語られた、同じソースを元にして書かれた記事であることは間違いない。週刊文春から記事を抜粋してみる。

映画の主演女優が、作品の凄さに恐れをなしてか撮影のまっ最中に遁走した。安田南。聞かぬ名だが、若松孝二がATGと提携して製作する1,200万円の“超大作”、「天使の恍惚」に出演させるため、新宿で見つけて女優に仕立てようとしたタマ(そうは見えぬが)だったらしい。(中略)当然安田はハダカになった。二十分にわたるリンチとベッド・シーン。これを11月の28,29日に撮り、5万円を渡したら12月1日には持ち逃げ。三日間、アパートや新宿中を探しまわったが見つからず。フィルム2,000フィートがフイになり損害額50万円!代役に横山リエをたて、同じシーンは無事撮了したが、若松監督怒るまいことか。「見つけて必ずオトシマエをつけてやる!」。安田の置き手紙に「内容がよくわからないし、思想的にあわない」とあったそうだ。(週刊文春1971/12.27号より)

これだけ具体的に日付と金額が出ている以上、よもやガセネタではあるまい。しかも別会社の週刊誌二誌がほぼ一致した記事内容となっているからには、巷間云われているように、安田南はクランクイン直前に降板したのではなく、二日間にわたる撮影が終わった後、5万円を持って遁走したのは事実と考えたほうがいい。とすれば安田南を撮影した幻のフィルムが残されている可能性があるのだ。だがなぜ遁走しなければならなかったのか?「作品の凄さに恐れをなして」逃げ出すような、やわなタマではないことは断言できる。それを解く鍵は安田南と中平卓馬とが共に関わった雑誌「朝日ジャーナル」にある。

安田南は筆が立つ。それは安田南と親しかった瀬戸内寂聴もプロ並みと認めるところだった。安田南のエッセイは「みなみの三十歳宣言」として、昭和52年(1977)に晶文社より出版された。雑誌「朝日ジャーナル」に掲載された安田南のエッセイは二つあり、共に「みなみの三十歳宣言」に転載されている。その内の一つ、「ハロー・グッドバイ」は昭和47年(1972)2/11号に掲載された。この同じ号には中平卓馬撮影のカラーグラビア「もうひとつの国 都市Ⅱ」も載っている。中平が活躍した70年代前半、それはちょうど安田南と恋人同士だった時期と重なるが、中平にとって雑誌「朝日ジャーナル」はいわばホームグラウンドのようなものであった。写真以外にも彼が書いた文章の多くが「朝日ジャーナル」誌上に掲載されている。

「ハロー・グッドバイ」はシリーズ連載として書かれたものの一つで、シリーズタイトルを「現代歌情」といい、各界の著名人が一つの歌を選び、それにちなんだエッセイを書くというリレー形式のものだった。安田南の「ハロー・グッドバイ」は言うまでもなくあのビートルズの曲である。執筆者は他に大和屋竺が「傷だらけの人生」(歌=鶴田浩二)、鈴木清順「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ)、小林信彦「さすらい」(小林旭)といった、かなりサブカルチャーに淫したクセのある人選で、このシリーズを担当していた編集者が朝日ジャーナル時代の川本三郎である。彼はこの他にも、日大全共闘議長の秋田明大に「練鑑ブルース」(守屋浩)、滝田修に「おんなの朝」(美川憲一)のエッセイを依頼している。滝田修は後に朝霞自衛官殺害事件の首謀者として指名手配されることになる。朝霞自衛官殺害事件は川本三郎も関わったとして逮捕され、その顛末は「マイ・バック・ページ」として本になり、昨年には映画化もされた。「現代歌情」が32回という中途半端な回数で終わっているのは川本三郎が逮捕されたためである。

川本三郎が安田南にエッセイを依頼したのは、昭和46年(1971)8月に開催された中津川フォークジャンボリーに取材に行き、そのステージを見て決めたことだった。その部分を「マイ・バック・ページ」より引用する。

女性ジャズ・シンガー安田南が舞台にあらわれたころには会場内はもう収拾がつかないほど混乱していた。荒れていた。あちこちで何か怒号が起こっていた。インターナショナルを歌い出すグループがいた。ステージに駆けあがって「粉砕!粉砕!」とデモを始めるグループがいた。気が強い安田南がデモ隊に向かって「テメエら甘ったれるんじゃねえよ!」とタンカを切った。(中略)そんな緊張が続いていたので逆に「現代歌情」の仕事はひとつの救いになった。その仕事のあいだは、全共闘運動も三里塚運動もしばらく忘れることができた。“中津川フォークジャンボリー”のステージで若い男たちを「甘ったれるじゃねえよ!」と怒鳴りつけた女性ジャズ・シンガー安田南のことが強烈に印象に残ったので彼女に原稿を頼みにいった。はじめジャズのスタンダード・ナンバーについて書いてもらおうと思ったが、二人で話しているうちにビートルズの「ハロー・グッドバイ」にすることにした。ビートルズは前年に解散していた。「グッドバイ」とか「別れ」が時代の気分に合っていた。

朝霞自衛官殺害事件の首謀者とされた滝田修。そして安田南は、川本三郎の人脈として同一線上に並ぶこととなる。朝霞自衛官殺害事件にからむ川本三郎の行動は「マイ・バック・ページ」によれば次のようなものである。川本が週刊朝日の記者時代にKという男が接触してきた。彼は京浜安保共闘であることを騙り、川本の自室でインタビューを受ける。その際、川本の自室の本棚にあった宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が好きだといい、ギターを借りてCCRの「雨を見たかい」を唄う。川本は自分と共通する嗜好を持つKという男にシンパシーを覚える。川本が朝日ジャーナル編集部に移動したあと、Kに対して「事を起こすことがあったら取材させてくれ」と申し入れる。Kは赤衛軍を結成、自衛隊朝霞駐屯地を襲撃し、武器略奪を図るが失敗し、自衛官一人を殺害する。Kから連絡を受けた川本と朝日新聞社会部記者が二人でKと面会しインタビューに成功する。しかし朝日新聞社はこれを単なる殺人事件と認定し、警察に通報すべきだと判断したが、川本は政治思想犯であると主張し、取材源の秘匿をたてに、その判断に従わなかった。Kから預かっていた、殺された自衛官の腕章とズボンは、川本にとっては記事の信憑性を保証するものであったが、警察にとっては犯罪を立件する物証としての意味があった。朝日新聞社の判断でインタビューが記事にならない、と知った時、川本は知人に預けてあった腕章とズボンを焼却するよう依頼する。それは川本にとっては「気持ちが悪い」という感覚的な判断だった。川本はKに対して、ジャーナリストとして取材源の秘匿という責任は守ったと思っていた。しかし逮捕されたKはあっさりと川本が共犯であることと、滝田修の指示に従ったと供述した。滝田修は指名手配され、川本は昭和47年(1972)1月に証拠隠滅罪で逮捕される。23日間の勾留の後、釈放されるが、朝日新聞社から懲戒免職され、懲役十ヶ月執行猶予二年の判決を受ける。

Kは逮捕されると同時に川本三郎が共犯者だと供述した。このことは無論、表には出なかったが記者仲間にはじわじわと知れ渡った。「朝日ジャーナル」をホームグラウンドとしていた中平卓馬がこの情報を馴染みの記者からキャッチし、中平を通して安田南に伝わっていたことは確実だと思われる。当時の過激派とその周辺には私服の公安警察が絶えず眼を光らせていたことは、「マイ・バック・ページ」における次の記述でも窺い知れる。

私と酒をいっしょに飲んだというだけで事情聴取された人もいた。私と滝田がたまたまここで酒を飲んだというだけで事情聴取された飲み屋もあった。

Kが逮捕されるのが昭和46年(1971)11月16日、「天使の恍惚」製作発表が同年11月24日、安田南が出演した「天使の恍惚」が撮影されたのが28,29日の両日、遁走したとされるのが12月1日である。川本三郎が逮捕されるのが翌年の1月9日であるから、安田南が関係する一連の出来事は、Kと川本が逮捕される狭間で生じた、わずか一週間足らずの間でおこったことになる。「天使の恍惚」の冒頭で米軍基地襲撃と武器奪取作戦が謀議される。このエピソードは朝霞自衛官殺害事件における自衛隊の武器略奪作戦がヒントになっていることは、足立正生が「映画/革命」の中でも自ら語っている。ゲリラたちが全員スーツ姿に身を包み、高級クラブで作戦会議をするという意表をつくイメージは、Kを含む赤衛軍が帝国ホテルで作戦会議を開いたことの意外さと符合する。川本三郎との接点がある安田南が、「天使の恍惚」のような映画に主演するとなれば、どんな素性であれ心情的に過激派寄りとみなされ、滝田修に次ぐ要注意人物とされることは日の目をみるより明らかだ。事情聴取だけではなくそれ以上の取り調べを受けることは確実で、「パルチザン前史」で滝田修のドキュメンタリーを撮った土本典昭が、滝田を一週間泊めたという女性との繋がりだけで家宅捜索を受けた例がある。安田南が遁走したのは映画=フィクションからではなく、現実に迫る公安警察から一時的に身を隠したかったからだ、と思われるのだ。

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(4)〜場所の記憶、新宿帝都座から日活名画座へ


空気座の舞台「肉体の門」が初演された帝都座五階劇場を階上に含む帝都座は、日活映画の封切り館として昭和6年(1931)に完成した。新宿三丁目で現在は伊勢丹向かいのマルイ本店がある場所である。ムーランルージュ新宿座がオープンしたのも同年で、帝都座のほうが開業が少し早い。施工したのは大林組で鉄筋コンクリートの五階建て、昭和初期のモダニズム建築に多く見られるルネッサンス様式である。ここに挙げた三枚の写真は、当時の建築雑誌に掲載された、完成当時の様子を伝えるもので、上から下に正面の外観、一階ロビー喫煙室、切符売り場となる。これを見ると建物だけでなく内装も非常に豪奢で、どこに行っても代わり映えのしない、昨今の無機質な映画館とは天と地ほどの差がある。 オープン当初、五階は劇場ではなくダンスホールとしてスタートした。「肉体の門」の原作者、田村泰次郎早大生だった頃に帝都座のダンスホールに通っていた、と後に五木寛之との対談で語っている。劇場となるのは昭和15年(1940)に日活の経営悪化に伴い帝都座が東宝傘下になってからで、この年の10月31日をもって東京中のダンスホールが日本国の指示により閉鎖させられたからである。それは年々苛烈になる戦争によって、日常生活の総てが国による統制を受け始めた一環としてあった。通称「贅沢禁止令」や、学生の劇場・映画館への平日入場が禁止されたのもこの年である。またディック・ミネミス・ワカナなどの英語に由来するカタカナ名を持つ芸能人が、内務省の指示により日本名に改名させられた。秦豊吉が育成した日劇ダンシングチームも東宝舞踏隊と改めた。

帝都座は終戦の翌年である昭和21年(1946)から営業再開する。一面の焼土と化した新宿であったが、帝都座、伊勢丹三越があった辺りだけが焼け残った、という証言がある。それは空爆による直撃をうけずにすんだことと、鉄筋コンクリートだったため延焼を免れたからであった。帝都座と同じ年に出来たムーランルージュ新宿座は跡形もなく焼失した。空気座がムーランルージュの残党によって結成されたのも、本拠としていた建物が無くなってしまったことがひとつの理由である。終戦から二年後の昭和22年(1947)には、帝都座五階劇場にて額縁ショウ、空気座による舞台「肉体の門」が初演され、そののち都内各所の劇場を転々とし、地方公演もこなす大ヒットとなったことは第一章で述べた通りである。翌年の昭和23年(1948)になると、ストリップ熱は浅草へと移り、秦豊吉公職追放も解かれ、帝都座五階劇場は閉場となるが、すぐに映画館へと衣替えが施され「帝都名画座」として再出発する。日活が帝都座の大株主となり経営権を握るのが明けて昭和24年(1949)からで、ここから洋画専門の名画座として一時代を画するスタートとなる。

昭和26年(1951)には名称を帝都座から新宿日活と改め、それにともなって帝都名画座も日活名画座となった。この写真はその頃のものであるが、いっけん帝都座と何ら違わないようでいて、よく見ると建物上部にあったローマ字の看板「TEITOZA」が無くなっている。もう1枚の写真は階段にぎっしり並んで、日活名画座への入場を待つ人を上から撮影したもの。日活名画座は五階にあったが、戦後はエレベーターの運行を停止していた。となると帝都座五階劇場だった頃も当然そうだったわけで、舞台「肉体の門」を観るために、九十五段あったという階段を下から上へと登っていった、当時の人々のうだるような熱気が垣間見えるようだ。

日活名画座が今でもよく知られているのは、和田誠が日活名画座のポスターを描いていたためである。それはまとめられて一冊の本になっているほどだ。映画エッセイや映画監督としても知られる和田誠が、日活名画座のポスターを描き始めたのは昭和34年(1959)からで、その後、八年間に渡って会社勤めのかたわら続けられた。ポスターを描いているのにもかかわらず、日活名画座にお金を払って入場していたのは、その仕事が日活名画座からではなく、ポスターを作っていたシルクスクリーンの印刷所経由だったためで、和田誠がポスターの絵を描きたいという一心から引き受けたからである。さらに驚くべきことにはノーギャラという条件を呑んだ上でのことだった。鈴木清順肉体の門」が封切られた昭和39年(1964)の日活新宿には、肉体の門のポスターと並んで、和田誠が描いた日活名画座のポスターが貼られていたことになる。

鈴木清順との関わりの深い映画評論家の石上三登志は、雑誌「映画評論」の読者論壇から頭角を現し、やがて読者という立場から離れて本誌に寄稿する、という形で映画評論家としてのキャリアをスタートさせている。鈴木清順が本格的に取り上げられた最初の記事は、昭和41年(1966) 11月号における「映画評論」の「呪文に魅入られてー鈴木清順の霊峰ー」という記事で、鈴木清順の他に美術の木村威夫、「映画評論」の編集長だった佐藤重臣石上三登志の四者による会談である。和田誠石上三登志は、1950年代から60年代にかけて名画座で映画を学んだ第一世代とでもいうべき人たちで、当時は日活名画座の他にも、池袋人生坐(現在の新文芸坐)、エビス本庄、目黒パレス、目白白鳥座などがあった。石上三登志の文章は、これまでの映画評論の主流であった、政治的な傾向や世代論的な対立といった構図に基づいて、一つの映画を分析し掘り下げていくものとは違い、俳優やセリフ、映画における文法(スタイル)といった切り口で、ジャンルや洋画邦画の区別なく自由に映画を横断していくのが特徴で、これは名画座第一世代に共通する特徴といってもいいのではないか。それはいうならば名画座における特集プログラムの組み方を、方法論として映画評論を書く上での枠組みとして敷衍したものといえるかもしれない。

日活名画座は「イタリア映画大鑑」とか「日活名画座巴里祭」と銘打って盛んに特集上映を催した。そこにある括りは、イタリア映画、フランス映画というだけで製作年代やジャンルに共通点はない。何の先入観も持たずに映画に接する、という態度は石上三登志和田誠の文章に共通するものだ。鈴木清順評価の気運が、映画評論家ではなく、無名の映画ファンによる読者論壇から盛り上がってきたのは前述したが、名画座第一世代に属する彼らが、プログラムピクチャーとして埋もれていた鈴木清順の映画を発見するのは象徴的である。彼らは映画に対する態度が自由で構えがなく、映画評論家の相手にしないどんな映画でも貪欲に吸収した。新宿日活がその五階に日活名画座を擁することで、そんな彼らが日活映画のプログラムピクチャーを身近に感じていたことは、双方にとって幸運なことであった。

舞台「肉体の門」を観たことがある都内在住の四十代以降の人々が、映画「肉体の門」を見ようと思い立った時、映画館は何処にしようか迷ったりはしなかっただろう。建物は変わってしまったとはいえ、帝都座があった同じ場所に新宿日活があり、その五階には舞台「肉体の門」が演じられた帝都座五階劇場ならぬ日活名画座があるからだ。いやむしろ舞台と同じ場所で映画がかかったからこそ、重い腰を上げて新宿日活へと向かったに違いない。舞台「肉体の門」を観に行った時と同じ道筋をたどり、己の戦後史と重ね合わせながら、その変貌ぶりを確認しつつゆっくりと…。折しも新宿駅は封切直前の5月18日に、新宿民衆駅(ステーションビル、現在のルミネの前身)として商店、食堂が250店舗がはいり、新しく生まれ変わったばかりである。泥と汗にまみれた猥雑なバラックのマーケットが立ち並んだ終戦直後の新宿駅前から、20年の歳月を隔てて清潔で近代的なステーションビルとなった新宿駅に降り立った時、彼らの脳裏をよぎったものは何だったのだろうか。

新宿日活が帝都座と同じ場所にありその五階が日活名画座だったことが、若い世代や四十代以降の双方の観客動員につながったこと。これが「肉体の門」がヒットした第三の理由である。昭和46年(1971)におこなわれた雑誌対談で、「肉体の門」の原作者である田村泰次郎五木寛之に、戦前に帝都座五階のダンスホールに通っていた、と語ったことは冒頭に書いた。ところが五木寛之はこの話をこれ以上広げようとはせずに、次の話題へと話は移ってしまう。五木寛之はエッセイ集「風に吹かれて」のなかで、日活名画座に触れ、映画勉強の場だったと書いていることを考えると、対談の聞き手としてはいかにも手抜かりである。時を隔てて同じ場所で、かたやダンスに興じ、かたや洋画にかじりついていたのである。話の持っていき方はいくらでもあったはずだ。ダンスホールだった帝都座五階が劇場となり、終戦直後には舞台「肉体の門」で人気を博し、その後は帝都名画座、日活名画座へと変遷していく歴史がそこで語られることはなかった。新宿日活(この時代には日活新宿オスカーと名前を変えていた。2009年に閉館した歌舞伎町の新宿オスカーとは別)はこの対談の行われた翌年の昭和47年(1972)にマルイに売却されて、帝都座から数えると41年の歴史に幕を下ろす事になる。

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(3)〜昭和39年とはどのような年であったか

映画「肉体の門」が公開された昭和39年(1964)について語るには、その前年から話を始めたほうがいいかもしれない。キネマ旬報に1963年度の映画界を振り返った記事があり、テレビ普及率の増加と、映画観客動員数の急激な落ち込みから、1962年に東宝藤本真澄専務が発した非常事態宣言がさらに悪化したことで、日本映画五社が資金難のため旧作映画のテレビ放出を決め、邦画五社のうち、松竹、日活、大映が無配当となったとある。年間映画観客数は最多の昭和33年(1958)と比べると、43%の減少となっている。この年に日活の江守清樹郎専務が「今後、斜陽という言葉は禁句にしたい」と発言したのは、映画産業の斜陽化が恒常化したためである。ではどうすればテレビに対抗できるのか?そのためにはテレビで放映できないコンテンツを増やす、という方向へと向かうのは当然といっていいだろう。それはまず、今までにはみられなかった激しい暴力描写を含む映画が、黒澤明監督「用心棒」(1961年公開)を皮切りに、「残酷ブーム」とよばれた一連の映画が生み出されることになる。「切腹」「武士道残酷物語」「陸軍残酷物語」などである。その後をうけて、やはりテレビでは放映できないセックス描写を含む映画が昭和39年(1964)にブームを迎えることとなる。

昭和39年(1964)といえば戦後最大のイベントである東京オリンピックが10月10日より開催された年である。東京オリンピックは戦前の昭和15年(1940)にいちど開催が決定していたが、日中戦争のあおりで開催を返上し、戦後においては東京オリンピックの四年前にあたるローマオリンピックの時にも、開催地として立候補し敗れた経緯がある。積年の念願がかなった東京開催が決定したのが昭和34年(1959)のIOC総会で、それ以降まさに国の威信をかけてオリンピックに向けて準備を進めることになる。オリンピック開催が映画産業に与えた直接的な影響としては、オリンピックがTV中継されることがテレビ購入のさらなる弾みとなり(開催前年度の1963年において88.7%の普及率)、映画観客動員数の激減につながる要因になったことと、洋画の輸入自由化が挙げられる。それまでは大蔵省の統制を受け、業者ごとに洋画の輸入本数割当が決められていて、保護貿易状態だったものを自由化したのは、先進国である日本と国際都市「東京」を国外にアピールする一環としてあった。このことは明治初年にキリスト教が禁教でなくなり、信仰の自由が法律によって認められた事と似ている。禁教令撤廃は列国に対する、新生日本の文明国としてのアピールが目的だった。

斜陽化にあえいでいた邦画業界にとって洋画の輸入自由化は泣きっ面に蜂だったが、東京オリンピック開幕直前の6月から実施された洋画自由化に先立って、映倫規定が事実上緩和されたのは、表現の自由が(芸術の名のもとで)保証された先進国としての体面を示すとともに、ジリ貧の邦画業界に対するお目こぼし的な意味合いもあったに違いない。具体的には同年2月に封切られた、勅使河原宏監督「砂の女」における岸田今日子の全裸演技が、必然性のある「芸術」というお墨付きがあったにしろ、成人映画ではなく、一般向き指定で上映され大ヒットを記録したことがキッカケとなり、これに後押しされた形で邦画五社はこぞって裸映画を競作することとなる。代表的なものをあげると東映「二匹の牝犬」「越後つついし親不知」、大映「卍」「悶え」、東宝「女体」、松竹「白日夢」「紅閨夢」、日活「月曜日のユカ」「猟人日記」そして「肉体の門」となる。野川由美子が全裸で吊るされのは、東京オリンピックの年に始まった裸ブームの真っ只中のことであった。

この中で最も興行的に成功したのは松竹配給の武智鉄二監督「白日夢」である。製作したのは武智個人が主宰する第三プロダクションで、一説によると製作費が五百万から八百万に対して、松竹の買取価格が一千七百万、配収が三億円といわれている。この映画は文豪、谷崎潤一郎原作を旗印とすることで映倫審査を乗り切った。衰退する大手五社を尻目に、少ない製作費でその数倍の興収を上げる、通称エロダクションといわれたエロ映画専門のプロダクションが目立って台頭するのもこの年である。ピンク映画とよばれたエロ映画に出演する女優も、大手五社で日の当たらなかった女優が起用されたりした。「白日夢」に出演した松井康子は松竹在籍中に牧和子の変名で、エロダクションの老舗、国映で「妾」に主演した。また日本初の本格的SM映画とされる、小森プロダクション製作の「日本拷問刑罰史」が封切られたのも、東京オリンピックが終わったすぐ後で、「妾」と同じく大ヒットした。「肉体の門」と「日本拷問刑罰史」に共通するのは、東京オリンピックと連動した映倫規定の緩和とともに、テレビ普及率の増加によってもたらされた「残酷」と「裸」という映画界の二大潮流にうまく乗ったことである。これが「肉体の門」がヒットした第一の理由である。


昭和39年(1964)は終戦から数えてちょうど二十年目にあたる(数え年と同じ数え方、昭和20年を一年目とする)。二十年といえば人間で言えば成人となり、終戦の年に生まれた子供が数えで二十歳になる節目の年である。「肉体の門」の伊吹新太郎のように、終戦で戦地から復員してきた二十代の若者も、社会の中枢を担う四十代の働き盛りとなっている。そんな壮年となった彼らも含む戦争体験者が、戦後二十年という節目にあって人生を振り返った時、おのが若き日々を戦争というものにささげ、また奪われたことに対する自問自答が、社会全体を覆う情念となって広がっていた。それはたとえば、この年に出版された昭和戦争文学全集や、林房雄の「大東亜戦争肯定論」などの広告リードにも端的に示されている。それは戦争を否定、あるいは肯定するにせよ、歴史学的な分析用語ではなく、暗黒、悲しみ、情熱といった「情念」を感じさせる言葉によって語られているからだ。そのことはまた二十年というスパンが、戦争というものを客観的に見つめ直すにはまだ生々しすぎた、ということかもしれない。

戦後二十年たった節目の年に、戦争の記憶をあらたに甦らせたのが東京オリンピックである。環七、首都高速一号、四号などの新設道路、国立競技場、日本武道館などの競技場施設、ホテルニューオータニなどの海外観光客のための宿泊施設などの建設ラッシュが相次いだ。また外国人に対して恥ずかしくない国際都市としての体裁を整えるために、景観の規制やこの時代にはまだ残っていた、終戦直後の雰囲気が残るスラム街の撤去なども行なわれた。日本最大の土木事業となった東海道新幹線開通のための工事も重なり、それらの工事に伴う徹底した「破壊と再生」は、戦争体験者にとって終戦直後の国土の「荒廃と再生」をフラッシュバックさせたはずである。終戦直後の作品である「肉体の門」の再映画化が東宝と日活で競作という形になったのも、戦後二十年という区切りと東京オリンピック開催によってもたらされた、終戦直後へと回帰する集団的な情動の現れであろう。また映画離れが進んでいた四十代以降の人々を、再び映画館に呼び戻すという目論見もあったはずである。それは昭和戦争文学全集などが出版された動きと連動していた。

肉体の門」とは小説よりも空気座による舞台の知名度が先行し、大変な人気を博したことは第一章で述べた。昭和23年(1948)のマキノ正博による最初の映画化「肉体の門」はGHQによる検閲を見越して、大幅な改訂を施され舞台版とは全く別物の映画となっていた。当時の雑誌記事にこの映画を評して「エロを期待すると肩透かしをくう」といった内容の記述がある。舞台「肉体の門」はエロの期待を満足させたが、それから16年後の再映画化となった鈴木清順肉体の門」に、終戦直後の苦いノスタルジーに誘われて映画館へと足を運ぶ観客が期待するものは、舞台「肉体の門」を食い入るように見つめていた、若き日の己との再会であったはずである。エンタテインメントを第一義とするプログラムピクチャーは、観客の期待に沿わなければならない。プログラムピクチャーの監督である鈴木清順のなすべき事は自ずとみえてくるはずだ。それは舞台では半裸で行なわれたリンチシーンを全裸とし観客のエロ期待値を上回ること、そして舞台を忠実に再現することである。もしそこに「清順美学」なるもので潤色が施されていたとすれば、彼らがこの映画を支持したとは思えない。そこにあるのは舞台「肉体の門」とは別物であるからだ。彼らは映画を見終えた後、職場や地域コミュニティで自身の戦後史を「肉体の門」を通して仲間に語りたくなる衝動に駆られた。なぜなら舞台を忠実に再現した映画を通してまざまざと終戦直後を追体験できたからだ。そのようにして観客が観客を呼んだ。映画離れしていた四十代以降の人々を取り込むことが出来たこと、それが「肉体の門」がヒットした第二の理由である。

空気座の舞台と鈴木清順の映画を比較した、同時代の映画評は全く見あたらない。それどころか主要新聞紙、映画雑誌などでは黙殺である。それは単なる裸ブームの時流に乗ったエロ映画の一本として、例えば週刊現代の「'64年を裸で稼いだ女優たち」という記事の中で野川由美子を通して言及される、といった程度である。空気座の舞台を知らない若い世代からは、次第に変なスタイルを持つ監督として、前章で取り上げた大林宣彦のように、読者投稿の中で注目されるようになる。空気座の舞台との関係を、鈴木清順に直接確認できればそれに越したことはないが、軽くはぐらかされることは目に見えている。誤読を誤読として楽しむことも映画を読む快楽の一つだ。ただ誤解しないでいただきたいのは、ここで述べているのは「肉体の門」に限定してのことであって、清順的と言われる演劇的でケレン味溢れるスタイルが、「肉体の門」にあってはそのまま「芝居の映像化」である可能性が高いのにも関わらず、その本質が忘れ去られて、「清順美学」という枠組みで簡単に片付けてしまうのは如何なものか、と提言しているだけである。

鈴木清順肉体の門」は言うまでもなく日活作品であることがヒットした第三の理由として考えられる。それは空気座による舞台「肉体の門」が初演され、秦豊吉がプロデューサーだった帝都座五階劇場を含む、新宿三丁目にあった帝都座は戦前に日活封切館として建てられたからである。(以下続く)

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(2)〜舞台を再現した映画としての「肉体の門」


鈴木清順肉体の門」は当初、浅丘ルリ子主演で企画された。同年9月に「肉体の門」よりほぼ四ヶ月遅れで公開されることになる団令子主演、恩地日出夫監督の「女体」も、田村泰次郎の小説「肉体の門」が原作だが、二作品共に映画化権を取得したのが同じ時期で、ここに取り上げた記事はそのことを伝えている。日活と東宝で競作となった「こんにちは赤ちゃん」に続き、「肉体の門」が競合するので見出しが「こんどはお色気の競作」となっている。鈴木清順肉体の門」にパンパンとして登場する五人の女優が全て日活専属ではないのは、リンチシーンやヌードシーンを吹き替えなしでやる、という方針を拒否したことで、浅丘ルリ子をはじめとする日活女優全員が降板したためである。スターである浅丘ルリ子を外し、これが映画初出演となる新人の野川由美子を起用してまで、なぜ吹き替えなしで映画化することにこだわったのか。それはリンチシーンやヌードシーンを編集やカット割りで映画的に処理するのではなく、あくまで空気座による舞台「肉体の門」を映像としてみせることを優先させたためだと思われる。リンチシーンやヌードシーンを顔を除いたアップで撮り、表情のアップと繋ぐという方法を取らずに、体全体をワンショットに収めなければ、舞台的な臨場感を出すことができない。

映画冒頭に、敗戦後に林立したバラック建てのマーケットをキョロキョロしながら歩くマヤ(野川由美子)のバックに、しわがれた声で唄われる曲が流れる。「こんな女に誰がした」のフレーズで有名な「星の流れに」という曲で、使われているのは菊池章子が歌うオリジナル音源ではなく、この映画が公開された昭和39年(1964)ごろ、R&B歌謡を歌っていた青山ミチを思わせるドスのきいた歌い方だ(歌手は不明)。この映画が公開される十年前の、昭和29年(1954)に出版された丘十四夫「歌暦五十年」にはこの歌に関して次の記述がある。

敗戦と共にやってきた生活難とともに、肉体を提供して生活の資とするパンパンが街にあふれてきた。終戦直後21年には立川や有楽町に発生し、当時五百名ぐらいだったものがこの年(昭和22年のこと、歌謡曲「星の流れに」、舞台「肉体の門」が共に大ヒットしていた頃=筆者注)には数千を超え、最初はモンペやサンダルといった服装が進駐軍を相手にかせぎ、特異な存在で文学や映画、演劇、流行歌もこれらを主題としたものが現われた。ことに田村泰次郎原作「肉体の門」を上演した空気座は、半裸の娼婦群とリンチ場面で人気を呼び、清水みのる作詞の流行歌「星の流れに」の「こんな女に誰がした」は時代の流行語となり、つづいて姉妹歌「こんな女と誰がいう」が出て世の非難をあびた。

「星の流れに」の姉妹歌としてあげられた「こんな女と誰がいう」は、「星の流れに」と同じ清水みのる作詞で、マキノ正博監督「肉体の門」の主題歌であり、この映画に主演した轟夕起子が歌ってヒットした。パンパンを主題とした文学や映画、演劇、流行歌はこの時代の息吹と連動して集中的に登場した。鈴木清順肉体の門」の冒頭に流れる歌が「星の流れに」だったのは、単にこの時代のヒット曲だったからではなく、この歌以外ではありえなかった必然性があったからだし、ドスのきいた歌い回しが、この映画が公開された1964年の空気感も体現していた。鈴木清順肉体の門」の脚本を書いたのは棚田吾郎といい、「星の流れに」のヒットによって後追い的に映画化された、山本薩夫監督「こんな女に誰がした」(昭和24年公開)の脚本にも名を連ねている。棚田はパンパンがたむろしていた時代からのシナリオライターであり、彼が舞台「肉体の門」をよく知る人物だったことで起用されたということだろう。新潮文庫版「肉体の悪魔肉体の門」の解説を書いている奥野健男によれば、「この芝居を見ないと戦後の日本人として何か資格に欠けるような気がして、インテリも学生も労働者も、帝都座に押しかけて行った」とある。

鈴木清順肉体の門」には二重写しが多用されているが、二重写しの場面がひどく唐突な印象を与えるシーンがある。それは隠れ家に怪我をして闖入してきた伊吹新太郎(宍戸錠)に、マヤ(野川由美子)が「早く出て行け!」と怒鳴られ、出入口の階段に登りかける直前に現れる、鬼のお面を頭に引っ掛けた伊吹との二重写しのショットである。これは後になってマヤのセリフで、伊吹がマヤの兄に似ている、という思い出として鬼の面のエピソードが説明されるが、最初は何のことか分からずビックリさせられる。このシーンが稚拙な感じを与えるのは、二重写しが始まった途端に画面全体の色調が少し白っぽくなり、単なる技術的な欠陥であるかのような印象を与えるからだろう。それはかつて特撮の手法だったスクリーン・プロセスよって合成された二つの画面が、明らかに画面解像度が違って見えたことと似ている。だが例えば人妻の町子(富永美沙子)のリンチシーンに被る、マヤの顔のアップが非常にスムーズで違和感のない二重写しになっていることを考えると、このシーンは意図的に稚拙めかしているのではないか?

そう考えたのは無茶を承知でいわせてもらうと、このシーンにおける二重写しが、舞台「肉体の門」における幻燈の使用をなぞっているのではないのか、と思ったからだ。客席の方角から舞台に向かって強い光源を当てると、光源の影響で舞台全体が一瞬、白っぽく浮かび上がる。舞台「肉体の門」がグラン・ギニョール座に影響されていることは前章で述べたとおりだが、グラン・ギニョール座が色々な技術を用いて、舞台におけるショック効果を試みていたことは、2010年に出版された「グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇」のアニェス・ピエロンによる、日本語版に寄せた序文でもうかがい知ることが出来る。以下その一部を引用する。

日本の伝統文化とグラン=ギニョル劇の類似点を示す三つの例を挙げてみることにしよう。ピエール・ロティは「お菊さん」(1887)の中で自らの日本体験を語っている。(中略)「この登場人物は明らかにこの劇において邪悪な役を演じている。それは腹黒く血に飢えた、年老いた食人鬼にちがいない。最も恐ろしいのは、白い幕の上にくっきりと映し出されたその影である。どういう仕掛けなのかはうまく説明できないが、その影はまるで本物の影のように老婆の動きに従っているものの、狼の影なのだ……」。特殊効果で怖がらせること、これもまたグラン=ギニョル劇のねらいである。

この序文で解ることは、日本の芝居において明治時代より光源を用いたショック演出をしていたことと、グラン=ギニョル劇も特殊効果で怖がらせることを狙いとしていたことである。秦豊吉がパリでグラン=ギニョル座を観劇し、舞台「肉体の門」をプロデュースした際に力を入れたことは、リンチシーンにおける凄惨なエロティシズムとともに、戦前からある幻燈を用いてある種のショック演出を考えたであろうことは十分に予想できる。ただし当時の舞台を見た人の文章に残されたものは、半裸の女性のリンチシーンに限られているので、これはあくまでも想像にすぎない。ただ、鬼の面を頭に引っ掛けた伊吹新太郎の登場の仕方が、まるで電源のスイッチを入れたように唐突に浮かび上がり、電源が切れたようにプツンと消える。二重写しの際によく使われるゆっくりとしたフェイドイン、フェイドアウトではないのだ。舞台では幻燈を用いて伊吹を登場させ、ショック効果と共にマヤの心象を表現したものを、スムーズでない稚拙めかした二重写しで映像化したのではないか、と勘ぐってみたのである。

空気座による舞台「肉体の門」の写真は、今の所ここに挙げた一枚しか確認できていないが、モノクロに色味を想像して着色した写真と並べてみた。人物のキャラクターによって、かなり計算された衣裳設計になっていることは、さすが戦前に欧州で本物のレヴュウや演劇を見聞した秦豊吉ならでは、と思う。まず中心にいる縄を引っ張る女性だけが横縞のストライプの入った柄物の上着と、格子縞のスカートを着用し、残りの三人は無地であることから、この女性がリーダー格の小政のせんとみて間違いあるまい。暖色系の色はモノクロだと黒くなるからストライプの色は赤だと判断し、さらに赤のストライプといえばアメリカ国旗をシンボライズする、と考えてスカートは青地にしてみた。左端のリンチを受けている女性はマヤではなく、人妻の町子だと思うのは、彼女だけが足の露出が少ない長めのスカートを着用しているからだ。清順版「肉体の門」の町子は、彼女だけ着物をきているが、時間勝負のパンパン稼業において、着脱に時間のかかる和装というのはやはり映画的なウソであろう。貞淑というイメージが、映画では和装、舞台では長めのスカートによって表現された。色も地味目の茶系のスカートに白っぽい上着と思われる。ハシゴの上でリンチを見つめているのはマヤ、右端のロープを支えているのはお六か、お美乃でいづれにせよ二人共に無地で寒色系の、パンパンらしい派手で色違いの洋服を着ているのであろう。パンパンが進駐軍から手に入れた米軍内の購買部(PX)から入手したと思われる、日本にはない原色の派手なレインコートを着ていた、と田村泰次郎の「わが文壇青春期」にもあった。

してみるといかにも清順らしいといわれる原色による洋服のヴァリエーションも、ある程度は舞台「肉体の門」の再現ではないのか、と疑われてくる。照明に関しても、見ず知らずのお客相手として伊吹新太郎と寝る時の、小政のせんに当たるスポットライトが有名だが、舞台の「臆面もないあからさまな再現」が清順的なのであって、映画においてスポットライト照明を用いることが清順的なのではない、といえるかもしれない。

美術セットにおいても細部にいたるディテールの造り込みが感じられるパンパンたちの隠れ家に対して、いかにも舞台の書割的な背景場面があり、その落差が映画「肉体の門」の不思議な魅力にもなっている。特に原作小説には登場しない牧師が、マヤの誘惑に負けてしまい、教会の前でのセックスを暗示する場面においては、背景の教会が意図的に書割そのものだ。その前でマヤの顔に舞台のライトアップのような下方からの照明が当り、「町子は悪魔だ。新ちゃんの身体を虜にする悪魔だ。あたしもその悪魔になるんだ!」とマヤの声でナレーションが入る。マヤが後でリンチを受けるのを承知の上で伊吹と寝る前の、心の動きを分かりやすく見せてくれる場面である。小説ではマヤの内面を言葉で説明する心理描写を、アクションで見せることは舞台や映画においては大切だが、そのためにこそ秦豊吉は、舞台で牧師を狂言回しとして登場させたのだろう。マヤが牧師とセックスすることは、リンチシーンの前フリとして重要であると共に、悪魔はキリスト教において堕天使であり、牧師の行為が悪魔であるマヤと一体化して、マヤと同じサタンになるという、日本の舞台の西洋化を考えていた秦豊吉好みのテーマも浮かび上がる。

舞台の「肉体の門」においては前掲した写真でも解るように、リンチが行なわれる隠れ家が舞台のメインセットであり、その他のシーンは書割を背景に演じられたであろうことは、容易に想像がつく。したがって舞台では書割の教会の前で演じられた場面をそのまま映画でも再現した、ということになりはしないか。

クライマックスのマヤのリンチシーンについては秦豊吉自身が書いた、空気座による舞台の模様を描写した文章を引用してみる。

女は見物に背を向けているが、真白な背中の肉が、何も隠さぬ胸へかけて、盛り上がって白く輝く。ぶたれて気を失った女が、吊るした縄をゆるめられて、くるりと躰をくねらして、床の上に倒れる。背から胸にかけて、照明を受けて、雪のように白かった。「肉体の新宿」という感がした。これで私は日本の芝居を、少し西洋らしくしたと思った。

この文章で解ることは、マヤの身体が雪のように白く輝くほどに、強烈な照明を当てられていたことである。その照明効果をさらに際だたせるためには、舞台全体を暗くする必要がある。その時に例えばブルーのカラーフィルタを装着した弱い光の照明を使い、舞台を丸ごと蒼い異空間に変えることは舞台照明としてはよくある手法だ。映画「肉体の門」においては全裸で吊るされたマヤを中心として、その周りがマヤのシンボルカラーであるグリーンに染められている。このシーンにおける論考で、1964年11月号の雑誌「映画評論」の読者論壇に掲載された数毀涼介(後に石上三登志によって大林宣彦であることが明かされた)による文章を引用してみる。

例えばリンチ場面。これ程凄まじいにも拘わらずこれ程リリシズム溢れた画面がかつて日本の映画にあっただろうか?カメラワークで変に逃げず真正面から女の全裸像(効果として)を捉えたのは作者の卓見であった。テレて布切れを纏わせたりする所から堕落は始まるのだが、作者自身がまるでサディストででもあるかのように極めて趣味的に悠々と楽しんでいる。だからこそぼくらは絵本の一頁を眺めるような、或るいはカレイドスコウプを覗きみるような、恍惚感に浸れるのだ。リンチの終わった後の空漠とした時間、全裸の女は天井からぶら下がり、他の女達は手拍子を打ちながら気怠そうに舞っている。両面の端は緑色に滲み、ロウソクのチロチロとした炎が足の裏を嘗める。ぼくの耳元を心地良くくすぐるのはメサイアの…ところが実際に聞こえてきたのは女達の唄う低俗極まる流行歌であった。

この論考のタイトルは「鈴木清順よ、音楽にもっと愛情を…」といい、大林宣彦が26歳の時の文章である。引用した文の最後に出てくる低俗極まる流行歌というのが、冒頭でふれた「星の流れに」で、若い大林宣彦にとってはこの曲が我慢ならなかったらしい。この論考は60年代の中頃から始まる鈴木清順評価の機運が、主に当時の若い世代によってなされたことが分かることでも意義があり、彼らは無論、空気座による舞台は見ておらず、低俗な流行歌「星の流れに」の出自も知らなかった。60年代以降、鈴木清順を論ずるときに今だに有効性を持つ枠組み、いわゆる「清順美学」といわれるものが、映画「肉体の門」にあっても単純にあてはめてもいいものなのか、はなはだ疑問である。清順美学といわれてきた「肉体の門」における数々の仕掛けを、舞台「肉体の門」の再現であると仮定して、その舞台再現がこの映画が公開された昭和39年(1964)という年にいかに機能したのか?それにはこの年を検証することから始めなくてはならない。(以下続く)

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(1)〜肉体の門と獄門島、ストリップ前夜

昭和39年(1964)5月31日、東京オリンピック開催を目前に控えた時期に公開された「肉体の門」は6月17日まで続映を重ね、合計で18日間公開となり、監督の鈴木清順としては日活時代最大のヒット作となった。その理由を次に上げる四つの要素から多角的に探ってみたいと思う。
(1)肉体の門と獄門島、ストリップ前夜 (2)舞台を再現した映画としての「肉体の門」(3)昭和39年とはどのような年であったのか (4)映画館の記憶、新宿帝都座から日活名画座

鈴木清順肉体の門」にはチコ・ローランド扮する黒人の牧師が登場する。主人公であるボルネオ・マヤ(野川由美子)を善導しようとするが、逆にマヤの誘惑に負けて交情し、最後は自責の念から自殺してしまう。マヤがリンチ制裁を覚悟の上で、お金を受け取らずに復員兵の伊吹新太郎(宍戸錠)と寝てしまうことの伏線となる、重要な脇役なのだが田村泰次郎の原作小説には登場しない。また昭和23年(1948)に公開された最初の映画化作品、マキノ正博監督「肉体の門」では牧師役を水島道太郎が演じている。なぜ原作には無い牧師が、マキノ版と清順版の「肉体の門」には登場するのであろうか?それはマキノ正博監督「肉体の門」が田村泰次郎の小説を原作としているのではなく、空気座という劇団によって演じられた舞台版「肉体の門」を元にした映画化であり、鈴木清順監督「肉体の門」のシナリオは舞台版「肉体の門」と、原作小説との折衷から出来ているからだ。

昭和33年(1958)6月の「図書新聞」に掲載された田村泰次郎のエッセイ、「“肉体の門”の思い出」に次の記述が出てくる。

劇団「空気座」が「肉体の門」の上演をはじめ、これが新宿や日劇で、延々とロングランを続け、そのあと田舎をまわり、観客動員数は記録破りにのぼったので、それにつれて、本もよく売れた。(中略)なにしろ本の広告は一行も新聞などに出さずにあれほど売れた本は、ほとんど空前絶後に違いない。

マキノ正博監督「肉体の門」が舞台版「肉体の門」を元に映画化されているのは以上の理由がある。当時の人々にとって「肉体の門」といえば小説ではなく、むしろ芝居の演目としての知名度が先行したということである。その芝居を上演していた空気座という奇妙な名をなのる劇団は、終戦後の翌年、昭和21年(1946)10月に結成された。メンバーは有島一郎堺駿二左卜全、沢村いき雄らの喜劇人で、水の江滝子が主宰していた劇団「たんぽぽ」に在籍していたが、「たんぽぽ」の理事だった小崎政房によって結成された空気座に集結した。堺駿二以外は戦前のムーランルージュ新宿座のメンバーで、空気座の「空気」も、おそらくムーランルージュ新宿座のキャッチフレーズだった「空気、めし、ムーラン!」からきていると思われる。人間にとって必要不可欠なもの、という意味で付けられたキャッチフレーズである。

空気座の舞台「肉体の門」で復員兵の伊吹新太郎を演じた田中実は、戦前に堺駿二と同じ劇団「たんぽぽ」に在籍していた。終戦後、伊吹新太郎と同じく復員してきて「たんぽぽ」に戻るが、トラブルがあって「たんぽぽ」を離れた浪人時代に「肉体の門」の出演依頼を受ける。出演話を持ち込んだのは小崎政房小沢不二夫で、二人ともにムーランルージュ新宿座の元文芸部員であり、「空気座」設立メンバーでもあった。小崎政房は演出、小沢不二夫は脚本、田中実が主演で、舞台「肉体の門」は公演回数1,200回を超える大ヒットとなり、映画化にあたっては舞台スタッフがそのまま引き継いだ形となった。ただし演出は小崎政房マキノ正博の共同名義になっていて、小崎政房は製作にも名を連ねている。伊吹新太郎を演じた田中実はこれが映画デビューとなって新東宝入りし、舞台「肉体の門」を観ていた監督の阿部豊に起用されて映画「細雪」に出演する際に、芸名を田崎潤と改める。

田崎潤の著書「役者人生50年」によれば、映画「肉体の門」は田中実(田崎潤)だけではポスターバリュウがないので、芝居ではちょっとだけ出てくる牧師の役をいい役にして水島道太郎が演じた、とある。舞台「肉体の門」に牧師が登場する、というソースは自分の知りうる限りこの記述のみであるが、舞台と映画が同じ脚本家である小沢不二夫によって書かれていることから間違いはないであろう。ではなぜ原作小説にはない牧師を登場させたのか?それは舞台「肉体の門」が初演された、新宿帝都座五階の「帝都座ショウ」のプロデューサーだった秦豊吉の強い意向だった、と思われるのだ。以下その理由を述べる。

「帝都座ショウ」が有名なのは昭和22年(1947)年の新春に上演された「ビィナス誕生」によってである。二十七景からなるこのショウの、ほんの一景にすぎない四、五秒の間、額縁の中に裸の女を入れて、名画のポーズをさせるという活人画、いわゆる額縁ショウによって日本ストリップの歴史が始まった、とされているからだ。この時にはまだストリップという言葉は使われておらず、最初にストリップショウという名目で行なわれたのは、翌昭和23年夏の正邦乙彦構成による浅草常盤座でのショウがその嚆矢といわれている。秦豊吉はその額縁ショウの発案者として知られるが、一筋縄ではいかない人物であったことは、森彰英によって書かれた評伝「行動する異端 秦豊吉丸木砂土」に詳しい。

秦豊吉は東大卒業後、三菱商事に入社し商社マンとしてドイツに長期滞在している。帰国後に小林一三に乞われ東宝に入社して東京宝塚劇場、帝劇社長を歴任し、その間にも日劇ダンシングチームを育てている。戦後はGHQによって公職追放され、帝都座のプロデューサーだったのは公職を離れていた間のことであった。また丸木砂土マルキ・ド・サドのもじり)のペンネームで、夫婦のセックスを扱った雑誌「夫婦生活」に艶笑随筆を書いたりした。舞台「肉体の門」は「帝都座ショウ」の合間をぬって公演された出し物のひとつで、額縁ショウが始まった同年、昭和22年(1947)年の夏に初演された。前述した田崎潤の著書によれば、公演は一年間もの間、大当たりを続け、毎日三回、日曜祭日は四回公演された。場所は帝都座五階以外にも日劇小劇場(後の日劇ミュージックホール)、浅草ロック座、浅草花月劇場(空気座は発足時に吉本興業の後援を受け、映画「肉体の門」も吉本映画と太泉スタヂオとの提携作品)と場所を変え、地方公演もこなした。

秦豊吉はベルリン在住の商社マン時代に本場ヨーロッパのレビュウを見聞し、日本にもなんとか本物のレビュウを根付かせようとした。日劇ダンシングチームの育成はその一環にあたるが、日本の演芸が西洋に比べて貧困なのは、ジャンルに乏しいからだという持論を持っていた。秦豊吉が舞台「肉体の門」のプロデュースを思い立った時、秦の念頭にあったのはパリのグラン・ギニョール座のことであった。秦の著書「劇場二十年」の中に次の記述がある。

モンマルトル横丁の、ひっこんだところにある、この劇場は、1897年の開場以来、殺人劇好色劇と喜劇ばかり上演して、パリ名物となっている。客席は272名だけで、お寺を改築した入口の透かし彫りには、私が行った時は、日露戦争当時のロシアのポスターで、日本兵士が銃剣を持って、ロシアの民衆を虐殺している、血だらけの絵が高く貼り出してあった。(中略)私はこういうジャンルの劇場があることに、大いに興味を持っていた。日本の劇界の人が、演劇だと信じているものは、いつもカブキであり、新劇であり、これ以外の新しい異色あるジャンルを少しも演劇だとは思わない。

グラン・ギニョール座と同じく定員420名の小劇場だった帝都座五階において、舞台「肉体の門」が大当たりしたのは、女性が半裸にされて受ける二度のリンチシーンが評判になったことがその理由だったことは、多くの人の書き残した文章によって知ることが出来る。舞台の演出をした小崎政房は、戦前に結城重三郎の名で剣戟スターとして活躍し、演出家としては「生きてゐる佐平次」で知られる鈴木泉三郎の「火あぶり」を演出している。「火あぶり」は責め絵で知られる伊藤晴雨とその女をモデルに書いたといわれる小説で、その残酷シーンは浅草で有名になったという。製作者、演出家がともにサディズムへの嗜好があれば、舞台「肉体の門」のリンチシーンが迫真性を帯びるのは必然で、その殺伐としたエロティシズムが敗戦直後の混乱した世相とマッチしたのだろう。SM雑誌として著名な「奇譚クラブ」が創刊されたのも、ちょうど舞台「肉体の門」が大当たりしている時期と重なるのは偶然ではないと思われる。

秦豊吉が原作にはない牧師を登場させたのは、牧師とのやり取りを通してマヤの心理の変化を、舞台として分かりやすく可視化させるためという以外にも、グラン・ギニョール座があった場所が礼拝堂を改築した建物だったことが理由ではないかと思われる。また日本の芝居を西洋化したい、という願望も持っていた。日劇ダンシングチームの育成もその現れだろう。秦豊吉マルキ・ド・サドをいち早く日本に紹介した人物であることを考えると、芝居におけるこの役は、牧師であるよりもカソリックの神父だったのではないか?マヤの誘惑に負けるのは、神父のほうが牧師より背徳的なイメージに勝るし、涜神的という意味ではサドとの関連性において繋がりを持つだからだ。ただ映画化されるときにはGHQによる検閲が厳しい時代でもあったので、リンチシーンも含めて大幅な改訂を余儀なくされた。実際、マキノ正博監督「肉体の門」の水島道太郎が演ずる牧師(神山という役名)は、清順版と違って大活躍しパンパンたちを見事に神の御許にかしずかせるのである。以下、その部分のシナリオを引用する。

その十字に組まれたその影が、焼けビルの内部に大きな十字架となって浮き出した。未だ、嘗ての焼けビルの中に、見たことのないそれは荘厳な美しい場景であった。そのバラ色の太陽にきっと顔を向けていたせん(関東小政のこと、轟夕起子の役=筆者注)は、一瞬、羞恥と悔恨と、慙愧の泪が、あふれ出る。その、せんの美しい激情は、他の娘たちの心にも、力強くしみ入った。突然、せんは、激しい嗚咽ともにうつ伏した、うつ伏した彼女の頭上に、朝霧をとおして、バラ色の太陽が描いた、美しい十字の彫像があった。それは十字架にぬかづく、敬虔なる求道信者の姿に似ていた。「神さま!おれは、また帰って来ました!」嗚咽の中から、せんの心はそう叫んでいる。その姿をみている、三人の娘たちの顔にいままでにない清純ないろがよみがえってきた。

この映画より16年後の鈴木清順監督「肉体の門」では、リンチシーンも含めて過剰なまでに演劇的な演出となってよみがえる。それは舞台「肉体の門」の再現でもあった。(以下続く)

昭和24年(1949)に封切られた映画「獄門島」の広告(左)と、同年に映画より先んじて公演された空気座による「獄門島」。空気座は「肉体の門」、「續肉体の門」、「獄門島」以外にも幾つか演目があったが、どれも「肉体の門」のようには当たらず、この年の12月に解散した。二つを比較してわかることは、映画のスチルが空気座による緊縛写真を参照していることだろう。スタッフなどの直接的な関連性は薄いが、しいてあげれば映画「獄門島」のプロデューサーが「肉体の門」の監督であるマキノ正博の弟、マキノ光雄であること。製作会社でいえば「肉体の門」を製作した太泉スタヂオ(太泉映画)と、「獄門島」の東横映画が、東京映画配給を加えて昭和26年(1951)に東映株式会社となることである。空気座による「獄門島」は、左下、右上の写真などグラン・ギニョール座の広告やステージ写真から学んだと思われる構図や表情をしている。それにプラスして、グラン・ギニョールの日本的展開としての伊藤晴雨的な緊縛実演を考えたのだろう。演出は「肉体の門」と同じ小崎政房である。変格物といわれる江戸川乱歩横溝正史などの探偵小説は、総じて日本におけるグラン・ギニョール的感性を体現していた。