魔子幻想〜魔子の淵源を辿って

マコという呼び名は真理子や雅子、牧子などの三文字の名前を短くした愛称や名前として親しまれてきた。昭和に子供時代を過ごした人ならば、必ず周りにマコちゃんと呼ばれた子がいたはずだ。しかしひとたび漢字で魔子の字をあてると、平凡な呼称がにわかに不穏な気配が漂う不吉な名前となる。そんな「魔子」をタイトルにした小説を初めて書いたのが龍胆寺雄昭和6年(1931)のことである。同年には吉行エイスケと共に新宿に出来た新しいレヴュー劇場「ムーランルージュ新宿座」の顧問となるが、顧問に就任する前に二人揃って新宿に関するエッセイを書いている。吉行エイスケは「華やか、新宿繁昌記」、龍胆寺雄は「新宿スケッチ」と題するもので、共に銀座と並ぶモダンな都会、新宿に関する点描を流行の新興芸術派らしい才気走った文章でつづっている。龍胆寺雄の「新宿スケッチ」よりその一部を引用してみる。

かくして新宿は昼も夜も生活の渦だ。が、ーー待て。問題はこの「生活」にある。百貨店の新宿、カフェやレストラントの新宿、円タクの新宿、露天夜店の新宿、花屋と果物店の新宿、ストリートガールの新宿、映画の新宿、これをしも単に生活と云うべきか?然り!新宿に於いてはこれが生活なのだ。そこにはおのづから、浅草や銀座や神楽坂と異なった「巷」の雰囲気が出現する。

ここに書かれた百貨店とは三越、レストラントは中村屋果物店は高野で三越を除けば現在でも新宿でお馴染みの店である。映画館は武蔵野館で、このエッセイが書かれた当時はまだ無声映画全盛時代で徳川夢声が弁士をつとめ、大変な評判を集めて新宿名物となっていた。龍胆寺雄の小説「魔子」はまだ18歳の少女ではあるが、主人公である私と同棲していて産婦人科の病室場面から小説は始まる。魔子は身体的特徴としては「艶の良いゆたかな髪、ひどく派手で印象的な目鼻立ち、均整のとれた華奢な骨格」とされてていて、中でも眼の描写が微細を極めている。

眼が印象的で素晴らしく大きい。ちょっと野暮で下向いている睫毛は長い。非情にはっきりと彫みの深い二重瞼で、心持ち目尻が吊ってゐる。白味が神経質らしく蒼く燐色に光っている。何かしら悲しい深みを湛えた大きな黒瞳だ、こいつが長い睫毛の蔭で時々刻々色んな表情をしてゐる。

と、まだまだ続くのだが、ともかく魔子は眼が印象的で素晴らしく大きく、心持ち目尻が吊っているという動物を思わせる眼、いわゆる猫眼だったということだ。魔子は妊娠していることがわかると、食の好みが変わり果物ばかりを食べるとか、週二回も通っていたほどの熱狂的な映画好きだったものが、急に無関心になるなど嗜好や言動が気まぐれで、本能的に行動する動物を思わせる。つまり女というよりもメスに近い魔子に翻弄されながらも、マゾヒスティックに彼女の言いなりになる主人公の一人称小説は、龍胆寺雄の初期における代表的な短編であり、まだ戦争前のモダンだった新宿という街の記憶と合わせて、魔子という字面を持つ名前は当時の文学青年やインテリの、記憶のアーカイブに刻み込まれることとなる。

昭和20年(1945)に終戦となり、龍胆寺雄吉行エイスケが軽快な筆致で描いたモダン都市、新宿も焼土と化したが、程なく駅前にバラック建ての通称ハーモニカ横丁という飲み屋街が出来る。その素早さを思うと人間の飲酒への欲望は食欲、性欲に次ぐ第三の本能ではないかと疑われるほどだ。浅見淵の昭和文壇側面史によれば、新宿ハーモニカ横丁とは次のようなものである。

当時は高野果物店ならびにその隣りのパン屋の中村屋終戦の混乱に乗じて唐津組に占拠されていてまだ開店の運びにいたらなかった。その廃屋然とひっそりした高野のコンクリートの横壁に平行して、道路を隔ててバラック建ての片側町が焼跡に急造された。いずれも一間間口(一間は約1.8m、筆者注)の奥行き二間といった全く同じ型の店が、屋根を同じくして棟割長屋風に七、八軒立ち並んだ。(中略)まるでハーモニカの吹き口をならべたような街づくりだったので、いつだれが名付けるともなくハーモニカ横丁とこのあたりをみんなが呼ぶようになったのである。

名付け親は丹羽文雄らしいのだが、ハーモニカ横丁にたむろして夜毎に酒を酌み交わした作家たちがいた。田辺茂一のエッセイによればそのメンバーたるや錚々たる顔ぶれで、伊藤整高見順火野葦平梅崎春生江戸川乱歩井伏鱒二田村泰次郎上林暁井上靖柴田錬三郎吉行淳之介中野好夫内田吐夢三好達治草野心平村山知義吉田健一谷崎精二田中英光坂口安吾佐多稲子城昌幸らに加えて映画やラジオ放送関係者がいた。同じ新宿で例えるならば1960年代のゴールデン街を彷彿とさせるが、ゴールデン街と違うのは喧嘩沙汰の伝説が無いことぐらいだ。このハーモニカ横丁にその名も「魔子」という店があり、魔子と名のる女性が一人で切り盛りしていた。「魔子」という小説を知るものにとって、そのお店は戦前の華やかだった新宿の記憶と結びついて関心を引いた。ハーモニカ横丁の常連だった巌谷大四によれば、当時のジャーナリストや作家たちに人気があったそうだ。中でも「秋津温泉」の作者として知られる妻子持ちの藤原審爾がその女性に道ならぬ恋をした。その体験を元に書かれたのが藤原審爾の小説集「魔子」である。藤原は小説の中の江見という登場人物にこう言わせている、「魔子ちゃんの眼は綺麗だね」「その眼だけが好き」。

映画監督の渡辺祐介もこのお店「魔子」の常連だったに違いない。なぜなら彼は魔子と名乗る女優の名付け親だからだ。渡辺祐介は静岡高校時代に一級上の吉行淳之介と同人誌を出す文学仲間だった。その後吉行と同じ東大に進学しているが、旧知の間柄で共にハーモニカ横丁の「魔子」に通ったのだろう。吉行淳之介は父である吉行エイスケと親交のある、龍胆寺雄の小説「魔子」と同じ名を名乗る女性に興味を持つのは自然の流れだと思うからだ。龍胆寺雄が「眼が印象的」と書いた小説の中の架空の女性が、はたしてそこには実在していた。渡辺祐介は新東宝時代に脚本家からスタートしているが、三条魔子がまだその名をなのる前に、シークレットフェイスとして初登場した「金語楼の海軍大将」の脚本を書いているし、三条魔子を芸名として初めて出た映画「美男買います」も渡辺の脚本である。また自身の監督デビュー作である「少女妻 恐るべき十六才」にも三条魔子を出演させている。もっともそれだけの理由で渡辺祐介が三条魔子の名付け親だと強弁するつもりはない。渡辺は新東宝倒産後に東映に移籍しているが、昭和39年(1964)に監督した「二匹の牝犬」において、小川真由美の妹役を探していた。そのときテレビドラマ「廃虚の唇」に本名である小島良子で出ていた女優をスカウトし、緑魔子の芸名を付けて映画デビューさせたのが他ならぬ渡辺祐介だからである。三条魔子、緑魔子は二人ともに眼が印象的な女優である。渡辺監督は緑魔子のスカウトのきっかけについて当時の週刊誌でこう語っている。「目を見たとたんに、“あ、これだ”と思いましたよ」

三条魔子が映画界にスカウトされたきっかけは昭和33年(1958)にフランソワーズ・アルヌール主演のフランス映画「女猫」日本公開の宣伝を兼ねて催されたミス女猫コンテストにおいて約500人の応募者の中から選ばれたことによる。新東宝入りしてから最初の三本の出演作は、前述したように売り出しの宣伝作戦として、シークレットフェイスとしてクレジットされており芸名は明かされなかった。後のインタビューで「猫のイメージから魔子という芸名を付けられたけど、なんかスゴイ女みたいな感じがあって最初は馴染まなかった」と語っているが、「魔子」という小説があり実在の人物がいたことは、当人は全く知らなかったようだ。それよりも彼女の頭にあったのは、デビューの4年前である昭和29年(1954)に封切られた、やはり猫顔である根岸明美主演の「魔子恐るべし」があったのかもしれない。何しろ魔子恐るべしというくらいだからスゴイ女であることは確かである。


「魔子恐るべし」の原作者は宮本幹也といい、昭和8年(1933)、「サンデー毎日」の懸賞映画小説に入選し、その後、日活の多摩川撮影所脚本部に入社している。戦後は小説家となるが世代的には龍胆寺雄とさほどの違いはない。「魔子恐るべし」の魔子には、龍胆寺雄の書いた「魔子」像がかなり投影されている。小説「魔子恐るべし」の冒頭すぐに魔子の容姿に触れて、「大きな黒い瞳、長い睫毛」とあり、龍胆寺雄の描写した「眼が印象的で素晴らしく大きい。ちょっと野暮で下向いている睫毛は長い」から文学的要素を差し引いた、大衆小説的なわかり易い描写となっている。「魔子恐るべし」は新聞「東京タイムズ」に連載されたが、映画公開日と連載開始がほぼ同時なので、小説自体が主演である根岸明美を最初からイメージして書かれていることは間違いない。根岸明美日劇ダンシングチームに所属していたところをジョセフ・フォン・スタンバーグ監督に見出され、映画「アナタハン」でいきなり主役デビューした。当時の記事を見るとシンデレラガール扱いだが、外国人監督に見出されたということは、根岸明美が映画のモデルとなったアナタハンの女王、比嘉和子と同じく、つり目で外国人が思い描く東洋人のステレオタイプだったからだろう。主に外国映画で活躍した根岸と同時代の谷洋子と共通する眼だ。

昭和46年(1971)公開の「不良少女魔子」で主演した夏純子はその前年に、デビュー当時に緑魔子と比較され“第二のマコ”といわれた大原麗子と共に、「三匹の牝蜂」に出演しているのが目を引く。龍胆寺雄の「魔子」が女というよりもメス的だったように、タイトルに「牝」がつく映画に出演している女優は概して動物的な鋭い眼差しを瞳に宿している。緑魔子のデビュー作が「二匹の牝犬」だったように、野川由美子江波杏子梶芽衣子などがそうだ。夏純子が本名である坂本道子で出演したデビュー作「犯された白衣」において、最期まで生き残る看護婦役だったのはあの瞳を持っていたからこそだろう。「不良少女魔子」は龍胆寺雄の「魔子」やハーモニカ横丁の魔子とは直接の繋がりはないが、眼のイメージが時間をへだてて積み重ねてきた記憶の累積が感じられる。

龍胆寺雄はサボテン研究家としても知られていて、 昭和49年(1974)に出版された著書「シャボテン幻想」にはサボテンの魅力として以下の「怪奇な生態」があげられている。サボテンは植物にもかかわらず、這いまわること、危険から逃げ出すこと、空中でも生きること、擬態すること、とある。つまりは動物的な植物であることが龍胆寺にとってサボテンの魅力なのだ、それは彼にとって女の魅力がそうであるのと同様に。「シャボテン幻想」の書き出しはこう始まっている。

麻薬を、ここでは魔薬というあて字にすりかえたほうが、感じが出る。いったいこの魔薬の魅力というのは何だろう。いってみればそれは、ごく具体的な手段で、いきなり人間を、レアリズムの世界から逃避させて、ロマンティシズムの世界へと飛躍させる薬だといえばよさそうだ。

メスカリンなどの麻薬はサボテンの一種であるペヨーテの成分から作られた。魔子の魔は魔薬の意でもあったのだ。そういえば麻子(アサコ)をマコと呼ぶ愛称もあったことを思い出した。

邦題の金字塔「勝手にしやがれ」は川内康範=作である


ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」は昭和35年(1960)3月26日に日本公開された。配給したのは新外映という会社で、正式名を新外映配給株式会社といい、フランス映画輸出組合(SEF)がフランス映画の日本輸入業務を独占していたものが、GHQの司令によって解消させられSEFと東和商事、三映社の提携によって設立された後、東和商事、三映社が提携を解除し昭和27年(1952)にこの社名となった。1950年代末にこの日仏合弁会社の東京支社からパリの本社に出張を命じられた一会社員の女性は、そののち映画の買付け業務も任されることとなり、最初に買い付けた四本のうちの一本がこの「勝手にしやがれ」だった。その他にもフランスではヒットしなかったアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」を買付け、この映画が日本で大ヒットすることによってこの一会社員であった秦早穂子は、月刊映画雑誌「スクリーン」でアラン・ドロン関連の記事を毎号のように寄稿することにより、映画ライターとしても知られるようになる。またアラン・ドロン代理人のような立場で昭和35年(1960)の来日を企画したりした(当時の60年安保闘争がフランスでは「日本に革命が起こる」と報じられたアオリで来日はキャンセルされた)。

この時代における洋画の輸入は、外貨の使途を規制制限するために大蔵省によって統制を受けており、各業者ごとに輸入割当本数が決められていた。秦早穂子は当時まだ20代後半の独身女性で、彼女のフレッシュな感覚がなかったら「勝手にしやがれ」の日本公開は数年遅れていたに違いない。「勝手にしやがれ」がその後の松竹ヌーベルバーグをはじめとする日本映画界及び文化全般に与えた影響力を考えると、この偶然ともいえる幸運な巡り合わせがもたらした意義は極めて大きいと言わざるを得ない。またそのことによって「勝手にしやがれ」という邦題が秦早穂子によって名付けられたという通説を生むきっかけともなった。「勝手にしやがれ」というフレーズがいかにキャッチーで優れているかは、その後なんども流用されていることからも明らかだ。ざっと年代順に並べてみても、立川談志の著書名(1968)、沢田研二のヒット曲(1977)、SEX PISTOLS唯一のアルバムである「NEVER MIND THE BLLOCKS」の邦題(1977)、黒沢清監督による連作(1995,1996)などがある。

一方では、この「勝手にしやがれ」という邦題がドギツいという理由で映倫から目を付けられていたのも事実である。「ドギツい」という形容は当時の流行風俗を語る上でのキーワードだったようで、映画宣伝にもそのまま使われた。左の新聞広告にある「情報は俺が貰った」「見殺し」の二本立ては「勝手にしやがれ」封切の前月に公開されたフランス映画で、広告上部に「このドギツさ!」と謳っている。また「情報」と書いて「ネタ」と読ませるような闇社会の隠語めかしたタイトルも、ジャン・ギャバン主演の「現金(ゲンナマ)に手を出すな」あたりから流行りだした。昭和35年(1960)8月21日付けの朝日新聞に「洋画題名裏ばなし」という記事があり、そのリードにはこのような記述がある。

「近ごろの映画の題名は、どぎつすぎる」という町の評判だ。日本映画も例外ではないが、ヌーベルバーグとか、ビート族映画とかの鳴り物入りで、洋画の日本版題名は「勝手にしやがれ」「狂っちゃいねえぜ」から、とうとう「やるか、くたばるか」と、これではまるでヤクザのセリフ同然。映倫もたまりかねて、最近、題名を“自重”するよう、各映画製作・配給会社に申し入れた。

つまり「勝手にしやがれ」という題名はヤクザのセリフ同然とみられていた、ということである。また同記事には洋画の日本版題名の良し悪しが、いかに客足に影響するかと続き、配給会社は全社員を動員して、翻訳題名の候補を二十も三十も出しチエをしぼる、とある。「勝手にしやがれ」を始めとする映画は、ドギツいタイトルが当たったことでそれに便乗した悪例として挙げられている訳だ。ここでにわかに「勝手にしやがれは秦早穂子=作」説は雲行きが怪しくなる。秦早穂子は映画買付けの任にあたるフランス在住の出張社員で、日本とは当時の飛行機で48時間も離れたモンマルトルにあるホテルを定宿にしていた。そんな20代の独身女性が、はたしてヤクザのセリフまがいのタイトル作者で有り得るのだろうか?「勝手にしやがれ」という邦題は、ヤクザのセリフにも似たどぎつい当時の邦題の流行の上に立ったもので、これが決して目立って下品だった訳ではない。逆にいえばそういった日本の事情に通じていなければ生まれてこない邦題で、それがフランスでの生活を拠点としていた秦早穂子から突然変異のように名付けられたとは考えにくい。また彼女はあくまでも映画買付けが主たる仕事であり、日本版題名を考える仕事は彼女の所属する配給会社、新外映の東京支社の宣伝部を含む社員の仕事と考えるのが筋だろう。さらに彼女の著書および彼女について書かれた雑誌等を調べても「勝手にしやがれ」が秦早穂子=作とする記述をみつけることは出来なかった。

川内康範の小説集「勝手にしやがれ」は奥付に昭和35年(1960)4月20日発行とあって、映画「勝手にしやがれ」の封切初日である3月26日のすぐ後にあたる。あとがきによるとこの小説の初出は昭和33年(1958)10月より翌年の1959年1月にかけて「別冊週刊サンケイ」に連載された(映画「勝手にしやがれ」封切の一年以上前である)。別冊週刊サンケイは月刊であり、この小説は四回に分けて分載されたもので、ここに載せたものはその最終回のトップページと前回までのあらすじである。あらすじの最後に「巷のサンドイッチマンに転落した彼は、『勝手にしやがれ』と自嘲する文化やくざになっていた」とあり、映画「勝手にしやがれ」のラストで、銃弾に打たれたJ.P.ベルモンドが「最低だ」とつぶやくシーンを彷彿とさせるし、朝日新聞のいう「ヤクザのセリフ同然」どころか主人公の文化やくざのセリフそのままだ。(文化やくざとは小説内の説明によれば、サラリーマンのようなもので権力亡者とあるから今で云う企業ヤクザのようなニュアンスか)

川内康範がこの小説を書いた時は、彼が原作者だった連続テレビ番組「月光仮面」の爆発的人気でいちやく時の人となった時期と重なる。昭和34年(1959)3月22日発行の週刊朝日に、初めて小説ではなく川内康範自身を取り上げた記事がある。「“月光仮面”の素顔 作者・川内康範という男」と題するもので、川内が週刊新潮を相手取って起こした訴訟を絡めて、川内康範の人物像をまとめてある。川内が起こした訴訟とは、子供が月光仮面のマネをして怪我をしたりすることから世の識者や教育者から反発があり、月光仮面がテレビ番組から消えるかもしれない、と書いた週刊新潮に対して「そんな事実は絶対にない」と信用毀損罪で告訴したもの。後の森進一とのおふくろさん騒動からも察せられるように、川内が激情家であったことは若い頃から変わらない。別冊週刊サンケイ紙面のトップページのタイトル左に小さく東映映画化とあるが、これが実現しなかったのはこの訴訟が影を落としていると思われる。というのは川内が訴訟を起こした年とその前年に渡る二年間で、月光仮面東映でシリーズ化され計5本が製作された。小説「勝手にしやがれ」が完結したのは川内が訴訟を起こす前であり、正義の味方である月光仮面の原作者が、その関連で起こした裁判係争中に、東映で同じ原作者をもつ、やくざを主人公にした「勝手にしやがれ」映画化が立ち消えになるのも止む終えない、と思われるからだ。逆にそれだけ月光仮面は人気があったともいえる。

映画「勝手にしやがれ」が公開される前に、新外映の社員がこのキャッチーな小説タイトルに目をつけ、川内康範にタイトルだけ使わせてください、と頭を下げた。川内としても一度決まった映画化が流された後だけに、特に問題もなく快諾したのではなかろうか。前もって相談もなく流用したならば、激情家の川内のことだから一悶着あったはずである。おふくろさん騒動の経緯をみても、自分が納得すれば何も文句は付けないが、人としての筋を通さないやり方には徹底抗戦する、というのが川内の流儀だと思われるからだ。これは全くの想像だがおそらく金銭も絡んではいまい。金額の大小の問題ではなく、心情の問題でこれは川内の政治や社会への関わり方とも通底する。

単行本「勝手にしやがれ」の広告を懸命に探したのだが見つけ出すには至らなかった。版元である穂高書房は出版物をあたっても今ひとつポリシーのはっきりしない出版社で、フランス、ロシア文学の翻訳書があるかと思えば、大下宇陀児川内康範の通俗小説があったりする。この本が映画の直ぐ後に出版されても、おそらくだれも川内康範の小説のほうが映画より先だ、とは思わなかっただろう。むしろ川内のほうがタイトルを流用したと思われたかもしれない。小説の初出が今はなき別冊週刊サンケイというのも、この小説の命運を感じさせる。テレビがまだ娯楽の王者ではなかった頃、週刊誌の別冊が定期刊行されるほどに次々と通俗小説や読物が、消耗品と同じように消費され忘れ去られていった。そもそも小説のタイトルにコピーライトを考える発想が無かった時代である。もし川内が月光仮面のことで訴訟を起こしていなかったら、「勝手にしやがれ」は東映プログラムピクチャーのタイトルだったのかもしれないし、また秦早穂子が「息切れ」を原題とするこの映画を、このタイミングでピックアップしていなかったら、どんな邦題が付けられていたのだろうか?

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炎加世子からみた松竹ヌーベルバーグ(3)


「太陽の墓場」が封切られたのが昭和35年(1960)8月9日、「日本の夜と霧」が同年10月9日でわずか二ヶ月の期間に炎加世子は四本の映画にほぼ主役級で出演予定だった。予定だったというのは「日本の夜と霧」の併映作品、吉田喜重監督の「血は渇いている」に出演予定だったにもかかわらず、「悪人志願」撮影終了後、病気でダウンし炎加世子の代役として柏木優子が立てられたからである。業績不振だった松竹が「青春残酷物語」の大ヒットよって、大島渚とそれに続く反大船調の映画、及び既成の女優にはない魅力を持った炎加世子にいかに期待を寄せていたかが分かる。ただ新聞広告の惹句にヌーベルバーグと書かれている映画は(それもごく小さく)、「太陽の墓場」と「ろくでなし」しかない。その理由については後述する。

「太陽の墓場」封切初日に発売され、炎加世子のキャッチフレーズとなった「セックスしているときが最高ね」の元となった週刊平凡、その四日後に発売された週刊女性の見出し「61年型の魔女」は、そのまま「乾いた湖」の広告に反映されていることはご覧のとおりである。セックスというキーワードと、週刊女性では未来型という意味で「61年型の魔女」だったキャッチが、「乾いた湖」の広告では現在形の「60年の魔女」と直されて使われている(タイトルロゴの下)。「太陽の墓場」は「青春残酷物語」と同じく大ヒットして、8月9日より22日まで二週にわたって公開された。「乾いた湖」が封切られたのは8月30日だから、その間わずか一週間しか開いていない。さらに「乾いた湖」は12日間公開された中ヒットとなり、その十日後に「悪人志願」が封切られている。炎加世子の実質上の主演作である「太陽の墓場」「乾いた湖」「悪人志願」の三本は、ほぼ間にそれぞれ一週間程度の空きを挟むだけの、現在では考えられない猛烈なペースで連続的に封切られたことになる。

「太陽の墓場」の公開中には芸能週刊誌ばかりでなく、週刊文春にも炎加世子が取り上げられた。その記事のタイトルは「“墓場”に甦った女・炎加世子」。このタイトルは良くできていて“墓場”が映画のタイトルばかりでなく他に二つの意味と重ね合わされている。自殺未遂から甦ったという意味で「死という墓場」、さらに興行不振だった「松竹という墓場」をヒットによって甦らせた、という二つの含みがある。この記事のリードには炎加世子を指して「ヌーベルバーグの旗手」としており、ヌーベルバーグという言葉が炎加世子の代名詞となりつつあった事を示している。上の中央にある写真は「乾いた湖」ロケ中の炎加世子を取材したもので、芸能週刊誌ではなく一般紙に掲載されたものだが、タイトルがヌーベルバーグ女優となっており、「乾いた湖」公開前には炎加世子=ヌーベルバーグという公式はすでにできていた。いっぽう芸能週刊誌による封切と連動した記事も引き続いて書かれていた。これもやはり週刊平凡が絡んでおり、炎加世子の売り出しとの深い関連はもはや明白だろう。一つは「悪人志願」公開一週間前に発売された「フッと淋しいとき私は詩をかくの」と題された記事、もうひとつは「乾いた湖」と同じように「悪人志願」公開当日に発売された扇景子との対談「ソコも狙っていわせるの?」である。「悪人志願」は週刊誌と連動した宣伝と、惹句に心中未遂女とあるように、シナリオ自体があらかじめ炎加世子を想定して書かれているにもかかわらず、ハイペースの公開ラッシュがたたったのか、ヒットには至らず続映とはならなかった。

「フッと淋しいとき私は詩をかくの」は表題からすると「悪人志願」とは何の関わりもないようにみえるが、「悪人志願」の主題歌を炎加世子自身が作詞し歌うということに関連した記事である。「悪人志願」公開当日に発売された週刊平凡の記事、「ソコも狙っていわせるの?」は日劇ミュージックホールの新人ストリッパーだった扇景子との対談で、ここにいたって付いたタイトルはセックス・スター対談であった。「セックスしているときが最高ね」をキャッチフレーズとした炎加世子が、ヌーベルバーグ女優であると同時にセックス・スターと呼ばれるのは時間の問題で、当然の成り行きといえる。また、「血は渇いている」に病気休養している炎の代役として出演した柏木優子を、第二の炎加世子として売りだそうとして松竹が考えたキャッチフレーズが、炎加世子の「セックス最高論」に対して「セックス昼間論」だった(この記事も同じく週刊平凡に掲載)。セックス昼間論とは「セックスはうしろ暗い愉しみではなく堂々とやればいい」というものだったようだが、ここにある柏木優子のグラビア写真(映画のスチルではない)を見ていると、炎加世子的な不貞腐れているような表情を、無理にやらされているようで痛々しい感じがする。ヌーベルバーグ的意匠が顔に張り付いているだけで、炎加世子の表情にはあった、死ぬことを止め退屈な日常といったん折り合いをつけた、どこか冷めた眼差しがないのだ(炎加世子の場合も作られたイメージではあったが、ある種の実存的な存在感を伴っていた)。

左は炎加世子の笑った表情を写した初めてのグラビアである。「日本の夜と霧」が浅沼稲次郎暗殺事件の当日に、上映4日目で突然の打ち切りとなり、佐々木功とのロマンス説をネタに公開された「太陽が目にしみる」の次回作、「旗本愚連隊」ロケを取材し記事にしたものである。見出しは「ヌーベルバーグのチャンバラ修行」となっていて、映画自体は松竹ヌーベルバーグと何の関係もないにもかかわらず、炎加世子がそう呼ばれたことによってこの見出しとなっている。もしこの笑顔写真が最初から出回っていれば、谷崎潤一郎も「残虐性の現れている女」とは言わなかったであろう。輝くような笑顔という例えがあるが、炎加世子の場合は微笑むことによって女優としての輝きを失った。

ここで再び大島渚の書いた「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」に話を戻す。この文章の中に「日本において“ヌーベルバーグ”の言葉が用いられたのは私の『青春残酷物語』が出て、吉田喜重の『ろくでなし』が出ようとする頃であった」とある。これは大島の云う通り「青春残酷物語」に先立って同年の昭和35年(1960)に公開された、本家フランスのヌーベルバーグ作品である「勝手にしやがれ」と「二重の鍵」の新聞広告にはヌーベルバーグの文字は見当たらない。もっとも映画専門誌には前年の1959年から頻出するようになるが、一般的には全く知られていない言葉だった。「青春残酷物語」がクランクアップし吉田喜重が「ろくでなし」の撮影に入った頃、つまりまだ「青春残酷物語」が一般公開される前に、まず最初に前述の週刊読売の記事が松竹の若手監督たちの動きを捉えて大船ヌーベルバーグと命名する。「青春残酷物語」が封切られ大ヒットを記録すると、映画専門誌以外の新聞雑誌も含めて「この映画は日本のヌーベルバーグだ」という論調で報じられるようになる。その動きを受けて「青春残酷物語」の次に公開された「太陽の墓場」と「ろくでなし」の新聞広告には恐る恐るではあるがヌーベルバーグの文字がみえる。恐る恐るといったのは扱いがごく小さいからで、松竹宣伝部もこの新語が集客につながるかどうか判断出来ずに、とりあえず使ってみて様子を伺ったというところだろう。

結果はどうだったのか?松竹側の立場で言えば、「ろくでなし」は「青春残酷物語」と同じ川津祐介をキャスティングしたにも関わらずヒットには至らなかったが、「太陽の墓場」は大ヒットとなった。それはこの映画が「ヌーベルバーグの決定的問題作(新聞広告の惹句より)」だったからではなく、炎加世子の性的魅力とキャッチフレーズとが相まって成功した。観客はやはりスターを見に来るのであって、言葉本来の意味でのヌーベルバーグが集客効果をもたらさない以上、「乾いた湖」の宣伝に炎加世子を全面に押し出すのは当然、となる。「乾いた湖」の広告にヌーベルバーグ作品とは謳ってはいないが、ヌーベルバーグ女優と呼ばれた炎加世子が全面的にプッシュされている以上、「乾いた湖」がヌーベルバーグと結び付けられるのは自然であり、流行語とはそのようにしてアメーバのように増殖していくものである。そこには大島の云う、言葉本来の意味にこだわるヌーベルバーグ原理主義のような言説、「『乾いた湖』のようなヌーベルバーグの“にせもの”が現れ、無責任な一部芸能ジャーナリスムがこれらを含めてヌーベルバーグと呼んだために、ヌーベルバーグはセックスと暴力の代名詞、軽薄極まりない風俗と化した」というのは、映画作品を主体性を持った作家意識の表出とみなす、あまりにも芸術至上主義的な言説と言わざるを得ない。もっともだからこそ当時の大島が一部からは熱狂的に支持され、またその反対に煙たがられたのは事実である。しかし日本におけるヌーベルバーグとは、主に炎加世子人気によって広められた横文字流行語のひとつに過ぎなかったのも、もうひとつの事実であったことは否めない。

昭和35年(1960)10月18日付けの朝日新聞に「横文字はんらん」という記事がある。「日本の夜と霧」が突然の公開中止になったのが同年の10月12日だからその6日後にあたる。その副題には「おかしい“ありがたがる心理”」とあり、その筆頭にヌーベルバーグが挙げられている。「これはフランス語でヌーベルは新しい、バーグは波ということです」と文中にあるように、フランス語であることさえ知らずに人々の口の端にのぼっていたことを示している。小見出しには「特に婦人にあこがれ」とあって、この言葉がデパートチラシやポップに盛んに使われたらしい。それは単にセックスと暴力の代名詞だけではなく「新しい」という意味でも用いられていたことが分かる。現にこの記事が出たすぐ後に、大島が小山明子との結婚を報じた週刊誌のタイトルが「ヌーベル結婚式」だった。これはもちろん大島がヌーベルバーグの監督だという意味もあるが、この結婚式が当時としては新しい無宗教の人前結婚式だったからである。

新しい、という意味だけではなく炎加世子直系のセックスを意味して使われたケースも紹介しよう。初代林家三平がこの時代に作った新作落語にその名も「ヌーベルバーグ」というのがある。聞いたわけではないのだが、上野鈴本亭でテープ録音されたものが筆記として残っている。例によってどこまでが話の枕やら分からない内容だが、ヌーベルバーグたる所以の部分を抜書きしてみる。時代背景がわからないと落語のオチが分かりづらいと思われるので説明すると、モノクロテレビはかなり普及しているがカラー放送も既に始まっている、しかしたいへん高額なのでカラーテレビは庶民の手に届くものではない、テレビでは「日々の背信」などのお色気番組を放送するので子供を持つ親から苦情の電話をテレビ局にかけている、という設定である。「モシモシ、放送局ゥ、こまっちゃうじゃないですか、あんなもんやられて、ほんとうに……どうしてあんなお色気番組やるんだよ?」「はァ、いまカラーテレビ、みなさんお買いになれないと思いましてね、番組に色気つけてんですよ」。ここで爆笑がおこったかどうかは定かではない。

炎加世子からみた松竹ヌーベルバーグ(2)


高見順のエッセイ集、「異性読本」に“ズベ公とはどんな女だったか”という一節があり、こんな書き出しで始まっている。「浅草のフランス座が改築して東洋劇場という名になって、その開場記念番組というのが新聞に出ていた。その出しもののひとつに“ずべ公天使”という題名がある。このズベ公というのが私の眼をとらえた。」“ずべ公天使”は新東宝を追われたばかりの前田通子の座長公演で、炎加世子はその舞台でデビューした。昭和35年(1960)2月23日付けの朝日新聞に「浅草このごろ〜炎加世子に人気」という記事があり、おそらくこれが炎加世子にとってマスコミ初登場だろう。記事によると「“ずべ公天使”からは、規格はずれのスター、いかにも浅草好みの炎加世子という人気者まで飛び出した。彼女はまだ十八歳、あの芝居にでるまでは特別な舞台経験もないが、ズベ公を地で行くようなイキの良さ、個性の強さが受けて、客席からしきりに声が飛ぶ。おかげで、いま撮影中の同じ題名の映画にも出演することになった」。ズベ公とは不良少女のことで、高見順によれば戦前からあった言葉だそうだが、東京だけではなく全国的に知られるようになったのは終戦後らしい。「ズベ公を地で行くようなイキの良さ」と紹介された炎加世子は、東映の「ずべ公天使」に出演後、同じ東洋劇場で働く照明係の少年と心中事件を起こす。こうしたことを今更書くのは本意ではないのだが、この事件が松竹によって映画宣伝に積極的に利用されるので外すわけにはいかなかった。

炎加世子が週刊誌に初登場するのは、ほんのチョイ役だった「ずべ公天使」に続く、初の本格的主演となる「太陽の墓場」が公開される一ヶ月前に「週刊平凡」に掲載された「自殺未遂をした踊り子が拾った幸運」と題する記事である。この記事によると炎加世子は心中の理由についてラジオ番組でこう語ったとある。昭和35年(1960)といえばその前年に皇太子御成婚によるテレビの爆発的な普及率増加があったとはいえ、まだまだラジオが主流だった時代である。「とにかく何をやってもつまらない…別に動機がお金とか、彼との結婚問題なんかではなかったんですが、なんとなく生きているのが無意味で、いちばんいいときに、彼といっしょに死んだらいいだろうと思ったのが、自殺のきっかけだったんです。」大島渚がなぜ素人同然の彼女を主役にしようと思ったのかについては、同記事による大島の発言として、「既成スターにはない、生々しい実感をいっぱいもっている」とあって、これは後の映画、「無理心中 日本の夏」の桜井啓子、「白昼の通り魔」の川口小枝などにみられるように、大島の俳優起用法は一貫している。前作「青春残酷物語」で日本のヌーベルバーグと騒がれだした新進気鋭の監督と、「とにかく何をやってもつまらない…」といういかにもヌーベルバーグ的な、満たされない日常の閉塞感によって心中未遂を起こした炎加世子との結びつきは、「運命」(当時の炎加世子の発言)的であった。

次に炎加世子が週刊誌に取り上げられるのは、やはり「週刊平凡」8月17日号の「セックスを平気で口に出していう女優」と題するもので、炎加世子の有名な「セックスするときが最高ね」という発言の元となった記事である。週刊誌の発売日は曜日が決まっていることで、読者もその曜日が来れば雑誌の発売を思い出し、ほとんど惰性で買ってしまう、というのが通例である。「週刊平凡」の発売日は水曜日で、8月17日号ならば通常その一週間前の水曜日である8月10日に発売されるべきものが、この号に限って一日早い8月9日の火曜日に発売されている。8月9日は「太陽の墓場」公開初日であり、この事ひとつをとってみても、この記事が映画公開と合わせたタイアップ記事である、という事を伺わせるには十分な根拠となる、と思われる。さらに「太陽の墓場」公開中に「週刊平凡」より4日遅れで発売された「週刊女性」には、やはり炎加世子を特集した「61年型の魔女 炎加世子」という記事があり、この号の広告見出しには「セックスするときが最高ね」と似た「キッスやセックスしてるときが幸福ね」とある。中4日という期間を考えれば、この見出しが「週刊平凡」での発言を受けての記事であろうはずがなく、この「セックスするときが最高ね」という、ヌーベルバーグ女優に相応しい奔放な発言は、炎加世子を売り出すためにむしろ松竹側からマスコミに働きかけて広めた、ということがいえるだろう。というのもそれから18年後の「週刊読売」に「ヌーベルバーグのスター 18年目の“第二の青春”」という炎加世子のインタビュー記事があり、この発言の真相が語られているのだ。以下、その部分を引用してみる。

「ええ、だから、仕事であろうと会話しているときだろうと、何かにつけて熱中しているときが最高だと、そういう意味でいったのが、「週刊明星」でしたかね(原文ママ、「週刊平凡」の誤り)、じゃセックスしているときはどうですか?っていうから、もちろん、夢中になってないバカはいないでしょ、って言ったら、そこだけ抜き出されちゃって、キャッチフレーズみたいにされちゃったのね。」

まるで誘導尋問のようなこのインタビューを記事にするときに、どこまで松竹側の意向が働いているのかは分からないが、この記事が「太陽の墓場」公開当日に合わせたタイアップ記事だということと、その四日後に出た「週刊女性」にはすでにキャッチフレーズのように使われていることを考えあわせれば、自ずと答えは見えるはずだ。なんとなく死にたくなったという、理由なき自殺未遂と、「セックスするときが最高ね」というキャッチフレーズで、すぐさま炎加世子はヌーベルバーグ女優というレッテルを貼られることとなった。もうひとつ松竹が炎加世子を売り出すために採った戦略は、言葉によるキャッチフレーズだけではなく、マスコミに露出する写真に制限をつけたことである。それは笑顔の写真を使うな、ということで、これは根拠となる記述が残されているのではないのだが、炎加世子登場時からの新聞、雑誌記事に掲載された写真を調べて検証したことから導き出した結論である。炎加世子は当時まだ19歳であり、撮影合間であれば笑顔のオフショットがあってもおかしくない年齢である。しかし彼女の笑顔写真が初めて公にされるのは、「日本の夜と霧」公開打切りのあと、松竹がヌーベルバーグを商売にするのは止めた後になって出演した、初の時代劇「旗本愚連隊」の紹介記事の中でのことであった。

笑わない炎加世子の顔は、鋭い眼光と物憂げな表情、グラマラスで伸びやかな四肢とともに、ヌーベルバーグイメージのアイコンとなった。谷崎潤一郎の小説「瘋癲老人日記」に、炎加世子が谷崎独特の表現である「残虐性の現れている女」として紹介されているが、それは炎加世子の一般的イメージが、笑顔がないことによって形作られたものであることに他ならない。その部分は以下のとおりである。(原文は漢字以外はすべてカタカナ表記だが、読みやすさを考えて平仮名に直してある)

時に依ると顔に一種の残虐性が現れている女があるが、そんなのは何より好きだ。そんな顔の女を見ると、顔だけでなく、性質も残虐であるかのように思い、またそうであることを希望する。昔の沢村源之助の舞台顔にはその感じがあった。フランス映画の『悪魔のような女』の中の女教師になったシモーン・シニョレの顔、近頃評判の炎加世子の顔等もそうだ。これらの婦人たちは実際には善良な夫人なのかもしれないが、もし本当に悪人であり、それと同棲ーーーは出来ないまでも、せめて身近に住み、接近することが出来たらどんなに幸福であろうと思う。

谷崎の小説で映画女優の実名が登場するのは他に「過酸化マンガン水の夢」に登場する、日劇ミュージックホール時代の春川ますみぐらいしか思い浮かばないが、炎加世子春川ますみは谷崎の小説にその名が出たことで、後世に至るまで日本映画史と文学史双方にその名を留める栄光に浴したことになる。(以下続く)

松竹が映画広告の惹句にヌーベルバーグと入れたのは「太陽の墓場」と「ろくでなし」の二作品だけである。カラーのポスターには入っていないし、モノクロの新聞広告にはタイトルロゴの「太陽」の下にヌーベルバーグの決定問題作、とあるがそれも小さな文字でほとんど目立たない。下の横たわる女性は炎加世子ではなく、大ヒットした「バナナボート」の歌手、浜村美智子である。炎加世子の半裸姿のイメージの源流がここにあるのではないか、とおもい取り上げてみた。浜村は「太陽の墓場」が封切られる三年前の昭和32年(1957)に、18歳で美術雑誌「アトリエ」のために撮られたヌードモデル写真が「娯楽よみうり」という週刊誌に転載されたのが芸能界デビューのきっかけである。炎加世子とデビュー年齢も同じ、雌猫を思わせる顔もよく似ているし、高校生でありながらヌードモデルになるという奔放さも共通している。浜村がデビューした同じ年に、松竹では泉京子というグラマースターがいて、海女に扮した映画「禁男の砂」が公開された時、浅草松竹に幅3m、高さ10mという巨大看板が登場し、人々の度肝を抜いているが(写真左)、海女といっても着衣で乳首が透けて見える、というのが限界だった。それから三年後とはいえ、「太陽の墓場」のポスターの衝撃度を、当時の人々の気持ちになって想像することも無駄ではあるまい。

炎加世子からみた松竹ヌーベルバーグ(1)


大島渚が書いた「我が青春残酷物語」というエッセイがある。大島の第二作「青春残酷物語」が好評に迎えられ、第四作「日本の夜と霧」に取り組む前に発表された、「我が青春残酷物語」というタイトルに相応しい自身の大学時代からの苦闘と苦悩の日々をつづったものである。アジテーションのようなメッセージ性が強い初期の生硬な大島の文章の中でも「我が青春残酷物語」が異色なのは、語りかけるような平易な文体で書かれているからで、それは初出誌が映画専門誌ではなく「婦人公論」ということがあるからだろう。このエッセイは同誌の昭和35年(1960)10月号に掲載され、6年後に出版された「魔と残酷の発想」に収められた際に大幅に加筆修正された。現在ではそれを底本として「大島渚著作集 第一巻」にも収録されている。初出誌では次のような書き出しで始まっているが、この部分は削除されているので初出誌でなければ読むことはできない。「自分のことを語るにはまだ若すぎると思います。殊に芸術家としての自分を語るには。だから今は、この春私及び一般に日本のヌーベルバーグと呼ばれている、松竹大船の若い映画監督たちを特集してくれた『週刊読売』の編集者が言ったように、企業の中で、ということは現代日本の状況の中で、明確な方針と方法を持って自分たちの道を切りひらいた若者たちの物語、として語りたいと思います。」この文中にある編集者は後の直木賞作家である長部日出雄と大沼正のことで、週刊読売の昭和30年(1960)6月5日号に掲載された「日本映画の“新しい波”〜怒れる監督たちはヒットするか?」と題する記事を指している。二人はこの中で初めて松竹大船の若い映画監督たちを総称して大船ヌーベルバーグと呼び、この呼称の命名者とされている。(命名者の特定に関してはシナリオ集「日本の夜と霧」にある大島自身の後書きによる。)

引用した大島の文中で注目すべき箇所は二点あって、ひとつは自己を語る上で自身を映画監督ではなく芸術家と規定していること、もうひとつは「日本のヌーベルバーグと呼ばれている、松竹大船の若い映画監督たちを特集してくれた『週刊読売』の編集者」とあるように、大船(松竹)ヌーベルバーグの命名者に対して自分たちを取り上げてくれたことに感謝の意を表していることである。そこにはヌーベルバーグという言葉への特別なこだわりは感じられない。ところがこのエッセイの直後に書かれた二つの文章はヌーベルバーグへの呪詛にも似た反発で埋め尽くされている。それは昭和38年(1963)に出版された大島の第一評論集「戦後映画・解体と噴出」に収録されている「“ヌーベルバーグ”撲滅論」(初出は実験室ジューヌ「パンフ」昭和35年10月)、雑誌「時」昭和35年11月号に掲載された「“ヌーベルバーグ”なんてない」(こちらは単行本未収録)で二つともタイトルからして穏やかではない。二つの文章は論旨が重複している部分がかなりあって、ほとんど同じ趣旨とみなしても差し支えないと思われるが、「“ヌーベルバーグ”撲滅論」に掲げられた勇ましい冒頭部分が内容を要約していると思われるので引用してみる。「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ!“ヌーベルバーグ”とは何か?“ヌーベルバーグ”という名称以外に何ら実体を持たないもの。それを何の疑いもなく信じこんだもの。そうしたものたちを撲滅せよ!」

「我が青春残酷物語」を単行本に収録する際に、週刊読売に関連したヌーベルバーグに言及する部分を削除したのは、先に出版された「戦後映画・解体と噴出」に収められている「“ヌーベルバーグ”撲滅論」との整合性を計ったこともあるだろうが、実は「我が青春残酷物語」執筆時点では日本のヌーベルバーグと呼ばれたことに、大島自身、芸術家としての自尊心を大いに満足させられたであろうことは、「“ヌーベルバーグ”撲滅論」の後に書かれた「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」(同じく「戦後映画・解体と噴出」に収録)と合わせ読むと理解することができる。時間の経過が大島の筆致を冷静にさせて、その経緯を客観的に見つめ直しているからだ。そうであるならば先に書かれた「“ヌーベルバーグ”撲滅論」を同じ評論集に再録しなければよいと思われるが、当時の熱気を伝えるためにあえて併録したのかもしれない。「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」によれば、大島の「青春残酷物語」「太陽の墓場」、吉田喜重「ろくでなし」公開された後、田村孟「悪人志願」が公開されるまでの間に、主体的な作家意識、方法論を持たない単なるヌーベルバーグの衣裳をまとっただけの「ヌーベルバーグのにせもの」が現れて、大島、吉田らの偽物ではないヌーベルバーグを巻き込み、一部のジャーナリズムの手によって、ヌーベルバーグという言葉を単なるセックスと暴力を風俗的に扱う映画の代名詞にしてしまった、とある。初出誌にある「我が青春残酷物語」は「ヌーベルバーグのにせもの」が現れる以前に書かれているので、大島のヌーベルバーグという言葉に対する過剰なまでの拒否反応はみられない。

では大島の云う「ヌーベルバーグのにせもの」とはどの作品を指すのか?「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」には具体的に作品名が出ているわけではないが、松竹公開作品を時系列順に辿ることで簡単に特定できる。「太陽の墓場」封切が1960年8月9日、「悪人志願」が同年9月20日、その間に公開された新人監督の作品で今も松竹ヌーベルバーグ作品とされているものは篠田正浩監督第二作「乾いた湖」をおいて他にない。もともと週刊読売の記事で大島渚を含む松竹の若い助監督のグループを最初に大船ヌーベルバーグと呼んだのは、七人の会というシナリオも書ける才能を持った助監督同人の集まりをフランスで起こったエコール(流派)になぞらえたことに始まる。後の大島や吉田の弁によれば、七人の会は特定のエコールは持たない、シナリオを提出して早く監督に昇進するための単なる利害関係の一致によって集った同人に過ぎなかったらしい。この中には大島、吉田の他に田村孟、高橋治らがいた。篠田正浩は1960年3月に「恋の片道切符」の脚本も書き監督デビューしているが、不入りでまた助監督に戻されている。高橋治とは同期入社、大島渚の一年先輩に当たるが、七人の会とは接点がなく週刊読売の記事にも名前が登場しない。しかし「“ヌーベルバーグ”を撲滅せよ」の文中にあるように、「“ヌーベルバーグ”を言い出したのは松竹ではないにしても、松竹がこの“ヌーベルバーグ”ブームに乗ろうとしたことも事実である。それはやみくもな新人監督の登用となって現れた」という松竹の方針によって早くも再びメガフォンをとるチャンスを得る。

朝日新聞に掲載された篠田正浩の「乾いた湖」を評した同時代の映画評のタイトルは、「類型的な筋立て」となっていて、類型的とはヌーベルバーグ的な類型に他ならないが、この表現は大島の云う「にせもの達は“ヌーベルバーグ”の衣裳、セックスと暴力を風俗的に取り扱っただけ」と見事に呼応している。ところが雑誌「映画評論」の佐藤重臣による作品評はこのような出だしで始まる。「このような政治の捉え方に対して、正統派ヌーベルバーグを始め、ジャーナリズムの気骨派も大変に憤慨しているようだが、ぼくは、なぜそんなにイカルのか、その理由が見当たらなかった」。正統派ヌーベルバーグとは無論、大島のことを指しているのだが、佐藤重臣による「乾いた湖」評のポイントとなる部分を抜書きすると以下のようなことである。「だが、このイミテーション(大島の云うヌーベルバーグの衣裳をまとったニセモノのこと、筆者注)も脚色に一枚、寺山修司が加わっていることを思いおこすと一概に断罪を真っ向からくだすには、チュウチョせざるを得ないのである。むしろ、ヌーベルバーグの捏造品をワザと意識して作ることによって、芸術の高邁さ・孤高さを階段から引きずりおろそう、という意図の下に作ったのではないか」。

脚本家としての寺山修司は「乾いた湖」が第一作目で、劇団「天井桟敷」を結成するのはまだ先のことであるにもかかわらず、歌人として注目されだしたばかりの寺山に対する佐藤重臣の評価は予感的で鋭いという他はない。迷宮的でパロディめかした「天井桟敷」の作劇術に通じるようなものを「乾いた湖」の中に見出しているからだ。「乾いた湖」は大島の云うヌーベルバーグの最低の基本線、「作家としての主体性を持つこと=脚本も監督自身が書くこと」を満たしていない上に、佐藤の云う「ヌーベルバーグの捏造品をワザと意識して作ることによって、芸術の高邁さ・孤高さを階段から引きずりおろそう、という意図」を大島がどう感じ取ったのかはわからないが、「日本の夜と霧」のように政治と真正面から向かい合う芸術家だった当時の大島にとって、寺山修司は篠田同様に撲滅すべき敵としてうつったに違いない。しかし後年に書かれた寺山修司への追悼文「最後の日々=寺山修司」(大島渚著作集第四巻収録)を読むと、「寺山は“成熟”という悪しき病を免れた同時代の唯一人の者だった」とある。“成熟”という悪しき病、とは、物事すべてにわたって相対的に捉えることのできる健全な精神、の反語として、若き日の大島自身の政治に対する悪しき病にも似た、直情的で早すぎた成熟に対する苦い述懐とも読める。

大島が「ヌーベルバーグのにせもの」と著書の中で罵詈雑言を浴びせた「乾いた湖」の監督である篠田との関係も、「戦後映画・解体と噴出」が出版された二年後に、松竹との間で始めていた映画「悦楽」の難航していた交渉が、まだ松竹に在籍していた篠田の好意によってその糸口が開けた(シナリオ集「日本の夜と霧」後書きより)とあるから、その頃には良好になっていたことが分かる。もっとも大島に限らず青年期に60年安保闘争を経験した世代は、昨日の友は今日の敵、のごとく憎悪と共感が激しく入り混じる、まるで学生運動の派閥闘争を想わせるような目まぐるしい人間関係が共通してあるので特に驚くには値しない。それはともかくヌーベルバーグという言葉がジャーナリズムによって変容を遂げていく過程をまたぐように公開された三本の、それぞれ異なる監督による映画「太陽の墓場」「乾いた湖」「悪人志願」をつなぐヌーベルバーグの徒花、それが炎加世子である。(以下続く)

右から「青春残酷物語」封切時と公開二週目の新聞広告。「愛と希望の街」はタイトルが松竹の意向で二転三転したことは先に記したが、「残酷物語」という言葉がタイトルとして受け入れられたのは、当時、ベストセラーだった「日本残酷物語」(右から三番目の新聞広告)が先にあったからだと思われる。というのも「青春残酷物語」のタイトルロゴが「日本残酷物語」のロゴに酷似しているからだ。また「青春残酷物語」の惹句にある「ビート族を描破!」も、「青春残酷物語」の前年、昭和34年(1959)11月23日に封切られた「非情の青春」(いちばん左)の惹句、「これがビート族の生態だ!!」によく似ている。ビート族とは太陽族に代わる「不良の呼称」として定着しつつあったが、下段にある同じ「非情の青春」にある「アメリ太陽族の生態を暴く」という惹句をみると、あたらしい言葉への移行期だったようだ。事実、「青春残酷物語」の新聞評を読むと太陽族映画との比較で論じているものがいくつかある。

ロカビリーブームの造り方(3)


小坂一也は第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる前年の昭和32年(1957)に「星空の街」で映画初主演をはたしている。黒澤明蜘蛛巣城」の添え物映画とはいえ主演作であることには変わりない。演じる役名も小坂一也をもじった小村一也となっており、高校時代はラグビーに打ち込むなど本人を投影したストーリーとなっていて、小坂ファンのためのアイドル映画といっていい。この映画は当初、新映プロという独立プロダクションが企画し製作するはずだった「栄光の星」が元になっていて東宝は配給するのみだったが、タイトルも脚本も変更され「星空の街」という東宝映画として製作公開された。その経緯は不明だが「星空の街」の製作者に名を連ねる小坂隆文は、小坂一也の実父であり新映プロの主宰者でもある。これは小坂一也のことを誰よりも知っていた井原高忠も彼の生い立ちとして書いているし、当時の週刊誌にも記されている。しかし映画史的にも重要なこの事実は何故か間違って伝えられ現在に至っている。俳優の事典としては現行では最大で最新のキネ旬「日本映画人名事典・男優篇」の小坂一也の項では、相変わらず「会社員の父」となっており、ワゴンマスターズについてもまるで小坂が結成したかのような記述になっているのはどうしたものか。

井原によれば小坂の父、小坂隆文は小坂一也の実母と早くに離婚しさらには二度目の母とも別れている。いわゆる火宅の人だったようで、小坂の著書「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」でも幼年時代の父の思い出しか語られていない。そんな父親が小坂が有名になった途端に彼のもとへ舞い戻り、映画の主役にして一儲けを企んだとすれば、小坂も内心忸怩たるものがあったに違いない。事実、小坂隆文が関わった小坂一也の映画は「星空の街」一本のみで終わっている。小坂の父親のことに触れたのは他でもない、第一回日劇エスタン・カーニバルの出演者の多くが、当初は有名人の親を持つ二世タレントのお祭り(カーニバル)として紹介されていたからだ。毎日新聞に掲載されたウエスタン・カーニバル前日の告知記事のタイトルは「有名人の二世や兄弟ズラリ」となっていて、もしこの人選が渡辺美佐の云うようにジャズ喫茶での「発見」であったりしたら、その慧眼たるや恐るべしと言わざるを得ない。二世の中でも特に山下敬二郎と関口悦郎は別格であろう。山下の父は柳家金語楼、関口の母は清川虹子という映画共演も多い芸能界の重鎮であり、戦前のPCLから戦後の東宝へと続く映画界にも太いパイプがある。彼らを採用することは取りも直さず彼らの親の背後に広がる芸能界や映画界の人脈も視野に入れてのことだろう。目ぼしいロカビリーの歌手たちのほとんどが、後に東宝と専属契約を結ぶのも、このことと無縁だとは思われない。小坂一也の場合は金脈を求めて離れていた父親が近づいてきたが、ナベプロの場合はその逆コースを辿る算段だったようだ。よってたまたま第一回日劇エスタン・カーニバルの後に山下敬二郎人気に火が付いたことは、ナベプロにとってはうれしい大誤算だったに違いない。

第一回日劇エスタン・カーニバルが目論見以上の大成功に終わった同年4月、つまり翌5月に開かれた第ニ回目の日劇開催前に、東京ビデオ・ホールで恒例となった第九回目のビデオ・ウェスタン・カーニバルが行なわれた。井原高忠によって書かれたこのレポート記事があるのでその一部分を引用してみよう。「このウェスタン・カーニバルは、定期的に、しかも長期にわたって我国C&W界の発展と前進に寄与して来た伝統と権威ある行事であり、今や西部音楽愛好家にとっては無くてはならぬ催しである。特に、今回はロッカビリーを避けて、なるべく正統のウエスタン、ヒルビリーを主体として演じられるという事であったが、結果は全盛のロッカビリー歌手たちが、かれらの商標をかざして大いにロックン・ロールし、客席もかの『ハイティーンの狂態』を再現した」。つまり日劇エスタン・カーニバルはロッカビリーをかざして大成功し、小坂一也の後進たちのバックアップにもなったのだから、東京ビデオ・ホールで開かれるウエスタン・カーニバルはロカビリー無しの、「正統のウエスタン、ヒルビリーを主体として演じられる」約束が事前に交わされていた。それにもかかわらず日劇と変わらないロカビリー大会になってしまったことを苦々しく記しているのだが、これはロカビリー歌手たちが勝手に演じたことではなく、その背後にいるプロモーター、すなわちナベプロが事前の約束を反故にして伝統あるC&W界の行事を乱痴気騒ぎにしてしまったことを暗に示唆している。純粋なウエスタンミュージック愛好家である井原高忠とって、後進の後押しをするためにロカビリーに手を貸すことは厭わなかったのだが、ナベプロはウエスタンミュージック界のために動いていたのではなく、実は単なる金儲けの手段としてロカビリーブームを煽っているのではないか、との最初のわだかまりを抱いたはずだ。

井原のナベプロに対するわだかまりがこの時点でまだ反発までには至っていないことは、翌年の昭和34年(1959)1月に、自身がディレクターを務めた日本テレビ光子の窓」において、その後ナベプロのドル箱スターとなる双子の姉妹歌手の名付け親となり、テレビデビューに一役買っていることからも窺える。ザ・ピーナッツ命名された二人はクレイジー・キャッツと共に、テレビ時代の幕開けと期を合わせてナベプロ大躍進の礎を築いた。井原はこの頃からめっきりミュージックライフへの寄稿も減り、小坂一也の歌手としての人気もロカビリー歌手に押されて急落していく。翌1960年に入るとペリー・コモ・ショーに関する記事を最後に、井原のミュージックライフへの寄稿は途絶える。ミュージックライフ創刊号からの編集長だった草野昌一は、1960年から漣健児のペンネームを用い、洋楽カバー曲作詞家としてナベプロ歌手たちのヒット曲を次々と量産していく。井原はおそらくこの時期に、音楽を心から愛する健全なアマチュアリズムとはかけ離れた、、音楽とは金儲けの手段にすぎないナベプロのプロフェッショナルで徹底した拝金主義とのぬぐい難い亀裂があったのだろうと思われる。

小坂一也の歌うプレスリーから漂ってくる匂いは、ロックン・ロールというよりもヒルビリー(泥臭いカントリーミュージック)のもつ素朴さに近い感触がある。彼の著書からも特にプレスリーへの偏愛は感じられないし、ウエスタンミュージックの流れの中から生まれたプレスリーを単にカバーしたに過ぎないような淡々とした書きっぷりである。第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれた時期に、もしロカビリーという言葉がロックン・ロールと同等に一般的な言葉であったならば、小坂一也こそロカビリー歌手に相応しく、反対にロカビリー三人男と呼ばれた彼らこそパフォーマンスを含めて本来ロックン・ロールと呼ばれるべきだった。昭和52年(1977)に三人が久しぶりに結集して出されたEP「上陸!ロックンロール・タイフーン」にはジャケット、帯ともにロカビリーの文字はなくロックンロール三人男となっているのは、彼らのロックンロールへの思いが今更ながら伝わってくる。自分たちのブレイクのきっかけとなったロカビリーという言葉よりも、自分たちは本来ロックンロール歌手だというメーセージのはずだったが、マスコミ記事が伝えたのは「ロカビリー三人男が復活!」であった。

ロカビリーブームの造り方(2)

毎日新聞社の告知広告にはロカビリイとあり、朝日新聞社の告知には何故ウエスタンシンガーとなっているのか?それはロカビリーという言葉がまだほんの一握りの人たち以外には全く知られていなかった言葉だったからで、ロカビリーは第一回日劇エスタン・カーニバルのために用意され、「ブーム」と共に一気に知られるようになった新語だからである。「そんなはずはない、順番が逆でロカビリーブームがまずあってその頂点に第一回日劇エスタン・カーニバルがあったのではないのか」と思われるかもしれない。確かに例えば平尾昌章やミッキー・カーチスは第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる以前から人気が急上昇していたのは、前回に載せた人気ランキングをみても明らかだ。しかし彼らは日劇エスタン・カーニバル以前にはロックン・ロールと呼ばれ、ロカビリーと呼ばれたわけではない。では何のためにロックン・ロールをロカビリーという新語に言い換えなければならなかったのか?それを語るためには順番としてロカビリーという言葉が第一回日劇エスタン・カーニバル以前には知られていなかった新語だ、ということを明らかにする必要がある。毎日新聞朝日新聞の告知広告の違いはそれを証明するためのきっかけとして取り上げてみた。

毎日新聞では計4回にわたりウエスタン・カーニバルに関連する記事が掲載された。パブリシティと記事とが一体となったいわゆるパブ記事と呼ばれるタイプのもので、なぜそれが毎日新聞でおこなわれたのかは解らない。ただ事実をを列挙していくと、まず最初に朝比奈愛子から始まり、平尾昌章、ミッキー・カーチスの順番で夕刊のコラム「春を呼ぶ」に取り上げられた。このコラムは毎日、芸能人が一人づつ登場しインタビューを絡めて近況や抱負を語る、というもの。朝比奈が1月25日、平尾が2月3日、ミッキーが2月5日と明らかに第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる2月8日に向けて読者の関心をリードしている。このうち平尾昌章とミッキー・カーチスの記事を比較すると一つの面白い事実が浮かび上がる。2月3日付けの平尾昌章の記事のほうがミッキー・カーチスの記事より2日はやい、とうことが比較する上でのポイントとなる。平尾昌章の記事は小見出しに「生かしてゆくロックン・ロール」とあるように、インタビューの中でロカビリーとは一言も口に出してはいない。例えばこんな具合である、「ウエスタンの歌手だが、今では "和製プレスリー" としてハイ・ティーン族の人気の的」、「初めてビル・ヘイリーのロックン・ロールをきいた時 "こいつはイカすぞ" と思った」、「自分がいったん選んだロックン・ロールの精神だけは生かしていきたい」。ところが二日後に掲載されたミッキー・カーチスの記事になるとこのように変化する。この部分は記者が書いた地の部分でミッキー・カーチスの語った言葉ではない。「(ミッキー・カーチスは)先に紹介した平尾昌章と同じくロカビリーの歌手だが、ちょうどそのブームにぶつかってたちまちビクターに迎えられた。八日から日劇の『ウエスタンカーニバル』、それが終われば…(以下略)」

第一回日劇エスタン・カーニバルに出演する歌手三人のうち、最後のミッキー・カーチスにいたって初めて日劇エスタン・カーニバルに言及され、それに合わせるように唐突にロカビリーという言葉が登場する。二日前にはウエスタンの歌手として紹介されていた平尾昌章は、ミッキー・カーチスの記事の中では突然ロカビリーの歌手ということになっている。さらに記事にはミッキー・カーチスの発言としてこのように書かれている。「ロカビリー・ブームは当分のことでしょう。将来は何でも歌える歌手になりたいし(以下略)」。ロックン・ロールをロカビリーと言い換えているのは、ウエスタン・カーニバルの主催者であるナベプロの意向が記事に反映しているのは明らかだが、二日前の平尾昌章には意向が伝わっておらず自由に語らせてしまった、ということだろう。これは芸能におけるプロモーション管理のあり方がまだ現代のように細かく行き届いていないことから起こる混乱が招いた結果だといえる。それはロカビリーの表記にも現れていて、毎日新聞の告知広告ではロカビリイ、読売ではロカ・ビリイ、雑誌ミュージックライフではロッカビリー、とバラバラである。表記が統一されていないのは何より新語であることの証拠でもあるのだが、毎日新聞において第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる前日の夕刊に載った告知記事にはこのような説明書きがある。「八日からの日劇ショーは流行の波にのりかけてきたロカビリー(ロックン・ロールとヒルビリーの合いの子)調に焦点を合わせたウエスタン・カーニバル」。説明書きが必要な言葉がその時点で一般的に流布しているはずがないのは言うまでもない。(合いの子とは混血のことで現在では差別用語としてマスコミで使われることはない)

大宅壮一文庫にある全ての雑誌記事をあらってみても、第一回日劇エスタン・カーニバルか開かれる以前には、ロックン・ロールブームに関する記事はあってもロカビリーブームの見出しのついた記事は一つも存在しない。つまりロカビリーという言葉はウエスタン・カーニバルのために用意されたものだ、ということが分かる。朝日新聞の告知広告にロカビリーの言葉がないのは、毎日新聞と違って開催前日まで何の関連記事もロカビリーに関する説明も無いからだ。ロカビリーなんて言葉は誰も知らないから「当代人気最高のウエスタンシンガーを揃えて贈る!」というキャッチとなる。

ただ一つだけ見出しにロカビリーが入った雑誌記事がある。それは第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる直前の昭和33年(1958)3月号のミュージックライフに掲載された「誰がロッカビリーのスターとなるか?」と題する記事であるが、但しこの記事は次の記述で文章を終えている、「二月には日劇で、平尾、ミッキー、キャラヴァン等の出演でロッカビリー・ショウが行なわれる。愈々、ウエスタン、ロッカビリーにも華やかなライトがあびせられる事になりそうだ。小坂一也を世に送った我がウエスタン界が、続いて生み出す新しいスターは誰か、まことに楽しみだ。」要するにこの記事も日劇エスタン・カーニバルに向けて書かれたパブ記事ということだが、注目すべきはこの記事の筆者が井原高忠だということだ。井原は慶応大学在学中からワゴンマスターズのベース奏者兼バンドマスターで、まだ無名だった小坂一也をボーカリストとして採用した。大学卒業と同時にあっさりとバンドを離れ、開局したばかりの日本テレビに就職する。テレビマンとなった後も小坂一也との交流は続き、1950年代には雑誌ミュージックライフにウエスタン関係のレコード評や記事を頻繁に寄稿していた。後にディレクターとなってからはゲバゲバ90分11PM等の番組に関わり、初期のTVディレクターとしては最も著名な人物の一人である。また芸能界の一大勢力となったナベプロとの反目は、スター発掘番組「スター誕生!」の裏話として有名だ。そんな井原がナベプロ躍進のきっかけとなった第一回日劇エスタン・カーニバルのパブ記事を、日本テレビ在職中に書いていたのである。先に引用した文中にもあるように、純粋にウエスタンミュージックを愛していた井原は(「我がウエスタン界」という表現からそれが伝わってくる)、日劇エスタン・カーニバルが盛り上がることによって「ウエスタン、ロッカビリーにも華やかなライトがあびせられる事」を心から願っていた。だからこの時点ではナベプロの主催した第一回日劇エスタン・カーニバルのためにパブ記事まで書いたのである。

ロカビリーという言葉を紹介したのも自分が調べた限りでは井原高忠が日本で最初である。前述した記事の二ヶ月前にあたる昭和33年(1958)1月号のミュージックライフに掲載された「1957年秋のウエスタン・カーニバルをきく」と題するもので、第一回日劇エスタン・カーニバルが開かれる前に東京ビデオ・ホールで開催された第八回目のウエスタン・カーニバルをレポートした文章で使われたのがロカビリーの初出だと思われる。ロカビリーという言葉はエルヴィス・プレスリーのハートブレイク・ホテル(1956)がヒットした時に、アメリカの音楽誌「ビルボード」でロックン・ロールとヒルビリーを合わせた造語として初めて使われたという説があるが、ソースが一つしか無いので何とも確証がない。井原はテレビマン特有の流行を目ざとく見つけ出す嗅覚で、いち早くこの言葉を知ったと想像されるが、第一回日劇エスタン・カーニバルを「ロカビリー・ショウ」という名目でいくということを、ナベプロの社長であるジャズマンの渡辺晋にサジェスチョンしたのではないかと思われるフシもある。何故なら「誰がロッカビリーのスターとなるか?」の中で次のような記述があるのだ。「こうした新進連の活躍は、まことに我がウエスタン界にとっては結構なことだが、今日こうしたブームのきっかけを作ったのはやはり小坂一也と云うことが出来よう。その彼は、ワゴンマスターズを離れて、今後、歌手ーウエスタン歌手として、又、歌謡曲歌手として独自の道を進み、映画俳優としての道にも進んでいくつもりだと云う。彼をウエスタン歌手としてのみ愛したファンは面白くないかもしれないが、もっと大きな立場から、彼の新しい前進に祝福あれと希望し、応援したい。」

つまりこの文章が書かれた時点で井原は第一回日劇エスタン・カーニバルにはトップスターである小坂一也の出演は無く、彼の云う「新進連」が中心となっていることを承知している。小坂は日本でいち早くハートブレイク・ホテルを始めとするプレスリーナンバーを日本語歌詞に乗せて歌い、「和製プレスリー」という異名も持っている。プレスリーといえばロックン・ロールの代名詞ともなっており、新進連が中心となっている日劇エスタン・カーニバルを「ロックン・ロール・ショウ」としてしまうと、どうしても日本においてロックン・ロールのトップスターだった小坂一也の不在が目立ってしまい、穴のあいた新人中心のショウにみえてしまう。そこで新語であるロカビリーをかつぎ出し、小坂一也とは違ったスタイルを提示すれば小坂の亜流とは一線を画すことが出来るうえに、小坂と同じ土俵で勝負する必要は最初から無くなる。現に小坂は歌謡曲への接近や俳優としても独自の道を歩みだしているし、平尾やミッキーらの後進を後押しするためには、小坂の歌うロックン・ロール調のイメージを払拭する必要があった。ロックン・ロールをロカビリーと言い換えるというコペルニクス的転回がもし井原高忠によって提案されたとしたら、その後ヒット番組を連発するTVディレクターらしい発想だと思えるのだが。

昭和30年(1955)のワゴンマスターズ。小坂一也は前列中央。この時点で井原高忠はすでにいないが、後にバントを去ることになる寺本圭一(前列右)と堀威夫ホリプロ創業者、後列左から二人目)は在籍している。大橋巨泉(ジャズ喫茶「テネシー」の司会者、またジャズ評論家でもあり1950年代には井原高忠と並んでミュージックライフ常連執筆者)による小坂一也評によれば、プレスリーのアンチャン風な野性味よりもジェームス・ディーンの持つナイーヴでいて虚無的な雰囲気に近いところに小坂の現代性をみているが、確かに若い小坂一也の風貌をみていると、後年のくたびれて煮え切らない中年役の多かった俳優とは思えない。この時期にワゴンマスターズのバンドボーイ(当時の言葉でボーヤ)をしていたのが、後に田辺エージェンシーの社長となる田辺昭知である。