総天然色が消えた日

総天然色という懐かしい言葉を久しぶりに眼にしたのは、「総天然色ウルトラQ」というソフトが発売になるというニュースだった。モノクロオリジナルのカラーライズを総天然色と名付けたのは、四文字熟語めいた胡散臭さといささか面妖な言葉の響きと相まって、ウルトラQの製作された時代とマッチしたこれ以上にないネーミングだと思ったのと同時に、総天然色という言葉が映画広告から消えたのは何時からだろう?との疑問に駆られた。

天然色という言葉が映画に用いられたのは、天然色活動写真株式会社という映画会社が大正3年(1914年)に日本で始めてカラー映画を製作した記録があるから既に一世紀近くの歴史がある。さらに総天然色と銘打たれて公開された映画では昭和10年(1935)封切の米映画「虚栄の市」があり、邦画では昭和12年(1937)封切の「月形半平太」がある(本邦上映天然色映画目録/雑誌「映画評論」1950年7月号より)。日本初の総天然色映画というと「カルメン故郷に帰る」(1951)ということになっている。確かに「本格的な」という意味ではそうかもしれないが、日本初というのは歴史的事実とは反する宣伝的な誇張である。

映画広告から「総天然色」という古めかしい呼称が消えたのは何時からか?を調べることは容易だった。映画雑誌のバックナンバーを時系列に従って順番に辿ってゆけばいいからだ。一番最初に総天然色という言葉が消えた広告は1966年11月12日公開のヘップバーン主演「おしゃれ泥棒」。やはり総天然色という言葉が持つ古めかしさが「おしゃれ」ではないと判断されたのだろう。パナビジョン/デラックスカラーという表記になっていて、広告自体も本文ページとは別丁で縦長に三つ折りで差し挟まれ、まるでポスターのようなオシャレ広告になっている。
邦画について順挙していくと、一番早く総天然色から「カラー作品」という表記に変えたのは東宝で1966年12月17日封切「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」、以下順番に大映66/12/24「酔いどれ波止場」、東映67/1/28「日本侠客伝 白刃の盃」、松竹67/2/23「日本春歌考」、日活67/3/11「恋のハイウェイ」、となる。1966年の終わりから翌年にかけて「総天然色」と「カラー作品」「テクニカラー」などの表記が混在する期間を経て、67年春にはついに総天然色は絶滅する。

映画広告から総天然色という言葉が消えつつあった1966年という年は、家電業界が前年の不況の影響下で減産に喘ぎ、その打開策として1960年9月から開始されたテレビのカラー放送を官民一体となって推進した年である。まるで最近の地デジ騒動と同じ構図だ。それは前年の1965年から本格化して、まず電々公社によるカラー放送に必要なマイクロウェーブ網の高規格化から始まり、NHKのカラー放送増強、民放では家電メーカーが進んでカラー番組のスポンサーとなった。代表的な例ではサンヨー提供の日本初連続TVカラーアニメ「ジャングル大帝」、ソニー提供のアメリカTVドラマ「ナポレオン・ソロ」がある。カラーテレビの値段も1960年には42万円!(17インチ)もしたものが10万円台となり月賦(分割払いのこと)で買えば庶民の手に届く値段となった。ちなみに「ジャングル大帝」は1966年7月に東宝系で封切られていて、その時に総天然色ではなくカラー長編漫画映画となっている。しかしこの作品は劇場用に製作されたものではなくテレビアニメの再編集版なので「総天然色」が使われていない映画からは除外した。

こうしてみてみると総天然色という言葉が消えた経緯はカラーテレビの普及と歩調を合わせているのが分かる。「カラー作品」という言葉は「カラーテレビ」の語感に似た機能主体の味気なさがあって、「総天然色」の持っていた歴史的蓄積をないがしろにしてしまう。例えば「カルメン故郷に帰る」から2年後の総天然色映画第二作、同じ松竹の「夏子の冒険」ではフィルム感度が上がったことによって屋内でのセット撮影が可能になる、といった一つ一つの技術的進歩と経験が「総天然色」をより自然な色=総天然色に近づける累積としての言葉の重みを持っていた。そういう点から考えると邦画で最初に「カラー作品」と銘打った映画が子供向けの怪獣映画であることは示唆的だ。自宅にカラーテレビがある子供にとって「総天然色」という言葉はいかにも鈍重で古臭い。

ところで振出しに戻って総天然色という言葉を現代に蘇らせた「総天然色ウルトラQ」は円谷英二円谷プロダクション制作、また日本で最初に「総天然色」を「カラー作品」と表記して「総天然色」を終わらせた作品「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」の特技監督円谷英二。彼が最初に映画界入りしたのが天然色活動写真株式会社だから、円谷英二という人はつくづく「総天然色」との不可思議な因縁も深い。